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介護日記#3私自身の事

平成27年2月7日にレビー小体型認知症と診断をうけた母の介護日記はひと休みして自分の事を書いてみたいと思う。

持病があり厳格な父と我慢強い看護師の母の元生まれた私。余り家庭円満とは言えない家庭だったように思うが、その影響だろう現実逃避して本ばかり読み将来の夢は絵本作家に成る事だった。絵は超絶下手だったので、もっぱら文章を書く事だけしか出来なかったが、過去に作品を応募したこともある。勿論全く相手にされなかったが、懐かしい思い出。

回りの空気に敏感な子供だった。勉強は本当に中位かそれ以下か。しかし母の音楽好きは見事に引き継いだ。また誰の血を引いたのか運動は意外と得意で体育の通知表は五段階評価だと5か4、もしくはよい、だったので運動会や体育祭が近くなるとワクワクしていた。残念ながら引っ込み思案で社交的ではなく、負けず嫌いなのに争う事は余り好まない性質だったので、目立つタイプではなかった。ただ小学生の頃出席番号が近かったクラスメートが足が早くていつも負けていたのは、私なりに結構悔しかった印象がある。そのクラスメートが大人になってから、テレビの実業団駅伝で颯爽と走っているのを見て本当に驚いたし嬉しかったし、ある意味納得した。

そんな私でも結婚する事になる。子供も授かり孫の顔を見せることが出来たが、父はその翌年に亡くなった。母とはいずれは同居も考えていたが暫くは気に留めずに過ごしていたある日、朝も昼も夜もいくら電話しても繋がらず心配になったことがきっかけで同居する事になった。

母の父私の祖父は認知症だったらしい。

晩年いつも家に帰ると言って背広に着替え出掛けてしまって徘徊していたと伯母が話しているのを何度か聞いた事がある。私の幼い頃の話だが強烈に記憶していて、母もなるかもしれないと漠然と思っていた。実際なったので私なりに遺伝があるのかと考えるが、学術的には証明されていないようだ。

同居し始めた母がまだ元気だった頃、私は地域ボランティアの誘いを近所の人から受けた。都合が合えばと参加する事になり、月に一度数人で1人暮しの高齢者宅に伺って声を聞くというものだった。お宅へ伺ってはじめてヘルパーという仕事が有る事を知る。漠然と家の掃除とかで仕事になるんだ、私にも出来るかもしれない。まだ子供が小さかった、今から20年以上前の出来事だった。

ある時子供のママ友からヘルパー2級の勉強をするんだけど、あなたもやってみない?と高額な受講料が書いてあるチラシを渡してきた。なんとなく母が介護を要するようになりそうだと以前から思っていた私には高額の受講料はかなり厳しかったが、講習を受けてみる事にした。

それから介護との関わりが始まった。子供が学校に行き始め、私も何か仕事をと考えた時、せっかく取ったヘルパー2級の資格を生かせればと講習元の事業所のスタッフとして登録する。自転車で行ける範囲、先ずは掃除と料理や買い物。今の仕組みはあれから随分変わったようだが、その当時は一件1時間ヘルパーとして働いていた。少しずつ慣れて週一件だったのが大丈夫ならもう一件、またもう一件と訪問先が増えていき、多い時は1日に4~5件サービスが入っていた。中でも透析帰りの方のサービスは今の私の基本。オムツ替え、清拭、食事作り、シーツ交換、着替えなど多様な身体介護を学ばせてもらった。

それから時は経ち、デイサービスの正社員として働くようになったのは、今から約10年前。

デイサービスは楽しかった、そして忙しかった。一生懸命勉強して介護福祉士の資格を取る事も出来たが、身体も酷使してしまい腕や腰や首を痛めながらの勤務、乳癌の手術などさまざまな事があった。でもなんとか10年間勤めた。

乳癌も術後5年たっているけれど、今ちゃんと生きている。

自分を誉めてあげたいと思う。

ただ、今から約1年前、働けなくなってしまった。色々な事があって辞めることになり、今は仕事はせずゆっくり過ごしながら介護5の母を家に週2回迎え在宅介護をしている。過去にいくら介護の仕事をしていても自宅で介護5の母を在宅介護する事はとてつもなく大変でまだまだ解らないことばかり、色々なかたの力を借りて日々やっと過ぎている。

このNoteを書こうと思ったのは、母の介護記録を忘れないうちに残しておきたかった事と、レビー小体型認知症の検索をしても自分の知りたい情報が余り無い事が主な理由。少しでも私の介護情報が役に立てれば嬉しく思います。

この文章を読んでくださっていることも支えになっています。

心より感謝します。

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