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車の謳を聞き、凍傷を治療する

 11月は何もなくとも気が滅入る。
 どれだけ起きるのが億劫だとしても、なぜだか6時台には勝手に目が覚める。朝のルーティンは、ベッドの上で漫画を読むこと。ここのところ「おやすみプンプン」を読んでいる。気が滅入るのはそれのせいかもしれない。
 今日はわけもなく涙が出てきて、どうにも気が滅入り、ベッドから出られなくなってしまった。

 ふと、部屋の壁に貼ってある川内倫子の写真展のチラシが目に入った。
 友人と写真家の話をしていたときに、川内倫子のことを教えてもらった。スティーブン・ショアとかナン・ゴールディンが好きだと言ったら、友人も好きだった。そんな友人が買った初めての写真集の作家ということならとても気になる。その友人を誘って行こうと思っていたのだが、生憎のところ台湾にいる。
 そうだ、川内倫子の写真展に行こうと思った。そうしたら起きれる気がする。

 今日の授業が終わって電車に飛び乗った。「飛び乗った」はいささか誇張表現かもしれないが、ともかく東京オペラシティのアートギャラリーへ向かった。

川内倫子 An interlinkingシリーズ

 川内倫子の写真からは生のうつくしさが感じらる。光を愛しているし、愛されているのだなと思う。
 この写真、すごく好き。
 それから、わたしの好きなharuka nakamuraとのコラボ作品があって驚いた。こんな物怪の短絡があって良いのか。

川内倫子 M/Eシリーズ

 なかなかおもしろい展示方法。
 入って最初の挨拶文の冒頭に「身体を移動し、撮影したものと向き合うという行為でしか得られないものがある。」とあった。最近、呉明益という台湾の作家の『自転車泥棒』を読んだのだが、そこに登場するアッバスという名の写真家も同じようなことを言っていた。写真の特別さというものは、その場にいなければ撮ることはできないというところだと。それゆえに、痛みを伴うと。
 こういう本にまつわる偶然のことを、柳瀬尚紀『翻訳は実践である』の章のタイトルを用いて「book is a book is a book is a book」と勝手に呼んでいる。本を読んで外で実践するというのはある種当たり前なのかもしれないが、存外に実践の場が訪れるのは少ないのである。こうした偶然は大事な場だと思う。

 写真の写真を撮るという行為は、なにやら滑稽に思える。それでも、思い出すきっかけがなければ何もかもを忘れてしまうわたしにとっては必要不可欠である。わたしの母は、旅行に行っても写真を撮らないのに、ご飯の写真だけはよく撮る。「写真を見たら、美味しかった楽しかった思い出が蘇ってくるでしょ?」
 「写真を見たら、今の記憶が蘇るでしょ?」と、わたしもいつだったか、誰かに言ったことがある。母の言葉が染み付いているのかもしれない。あるいは、フィルムカメラでよく写真を撮ってくれていた祖父から受け継いだのかもしれない。

 いずれにせよ、わたしにとって写真を撮るという行為はかなり哲学的なものであり、アートという文脈で語るにはあまりに厚顔のような気がする。
 写真に収められているのは、その瞬間の前後の記憶そのものであると言えるし、撮った写真を見るとまったく関係のない思い出が蘇ってくる。

 初台から明大前まで歩いてみた。歩こうと思った。
 深緑野分が『ベルリンは晴れているか』の一節で「列車に乗るものは皆、即席の哲学者になる」と書いた。乗り物に揺られているときほど分けいつても分けいつても思考の山ではあるが、わたしの場合は歩いているときにより顕著になる。
 郷土の哲学家、西田幾多郎は京都の哲学の道を歩いて思索に耽ったというし、カントは毎日決まった時間に決まった道を歩いていたという。自らを哲学者であるとフレームしたいわけでは毛頭ないが、わたしにとっても歩く時間は考えることができる時間だ。

 気が滅入っているときにわたしがするのは、気分転換と思考だ。一旦気分転換を挟まなければ、ネガティブで自分本位な思考がぐるぐると脳を駆け回るだけに過ぎないので、なにか文化的なものに接する。小説や映画、美術など。あまりに重症化しているときは、俗世から離れるために山に登る。
 気が滅入っているにも関わらず、そのトピックに関する思考を巡らせるというのは自傷のようかもしれない。けれども、忘却のフェーズへと移行するためには思考を整理する必要がある。少なくともわたしには。
 凍傷の治療には、四十度前後のお湯につけて温めるという方法があるようだが、凍った神経を解凍する時の痛みは凄まじいものだという。しかし、そうした痛みをと伴わなければ治療はできない。思考とは凍傷の治療のようなもので、考えたくないトピックに対して思考を巡らすというのは非常に痛みを伴うものの、それなしでは、結局のところ一時的に見えなくなってしまうだけで、どこかで発露することになるからだ。

 そういったわけで、わたしは初台から明大前まで、横を通る車の騒音を聞きながらいろいろ考えてみせた。さながら哲学の道を歩いているようだった。
 愛などというトピックはとうに考え尽くされているだろうが、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』が気に食わなかったわたしは、自ら解を探す必要がある。そこらじゅうに解は転がっているのに、気が滅入るとたちどころに消えてしまう。

 明大駅まで着くと、群衆が一方向を向いて立ち尽くしていた。何事かと振り返ると、見事な皆既月食だった。みんなして月を見ているというのは風流だな、と思いながら電車に乗って帰路に着いた。

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