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第3回 20年ほど早い「老後」を迎えた私たち / Youtube用台本


イントロ

このチャンネルは、1978年生まれの就職氷河期世代の当事者である私が、目前に迫ってきた50代を見据えて「これから」を考える動画を投稿しています。

「これからを考える」とある通り、就職氷河期世代の過去についての言及や検証は、ほかのチャンネルにお任せし、あくまで我々当事者の現在と未来を見据えてお話する方針でやってまいります。

また、コメント欄などで、視聴者の方々と交流を図りながら、私一人では到達できない視点や知見を得られれば、これ以上有意義なことはないと考えています。

どうか、お気軽にコメントを書き込んで下さいますと幸いです。

何卒よろしくお願いします。


社会復帰できないとわかっていても、ドロップアウトを実行する

第3回目は、20年ほど早い「老後」を迎えたとも言うべき私たちが、どういう心構えで人生に臨んでいくべきか、というテーマでお話していきます。

前回の動画で、メンタルヘルスの不調とどう向き合うべきか、というテーマを扱いながら、まずはプラスでもマイナスでもないゼロ地点を目指してはどうか、という内容をお話しました。

そして私の場合は、一旦仕事を辞めて、生活保護を受給しながら人生を立て直していたという経験談も語らせていただきました。

しかし、こう考えるかたもいらっしゃるかもしれません。

仕事を辞めて、引きこもりやニートのような生活にドロップアウトしたとして、そんな思い切ったことをしてしまった後に、きちんと社会に復帰できるだろうか、と心配になるかもしれません。

そうですね。

当チャンネルのターゲットである40歳を過ぎた就職氷河期世代が、一度引きこもりやニートのような、思い切ったドロップアウトをしてしまったら、2度と社会に復帰できなくなるかもしれません。

私は、この点に関しては、もう仕方ないときっぱり諦めています。

2度と社会に復帰できなくなる覚悟で、ドロップアウトを実行するしか、選びようのないくらい追いつめられているのが、我々就職氷河期世代であるという認識です。

なぜ仕方がないと諦める以外ないのか、2つの視点から、私なりの経験も交えつつ、意見を述べさせていただきます。


視点1 心のエネルギーが枯渇した

1つ目は私たち側の要因です。

私たちは基本的に元気がありません。

20代・30代の大切な時期を、ことごとくハードモードで生きてきました。

執拗なまでに自己責任論と「お前の代わりはいくらでもいる」というメッセージを浴びせ続けられ、努力(苦笑)が足りていない者から、徹底的に貧困に叩き落されるデスゲームを20年以上強いられて、エネルギーが枯渇していきました。

さらにそこに、加齢により基本的な体力と精神力に衰えが見られるようになりました。

どんなに日本国民には勤労と納税の義務がある、と正しさを示されたとしても、就職氷河期世代を救済する雇用対策を実施している、と優しさ(苦笑)を示されたとしても、それに応えられる精神力、つまり元気がないのです。

そんな人間が、ハローワークと、病院の、どちらに通うことを選ぶのか、言うまでもありません。

そして、我々よりも上の世代の医療費ですら圧縮しなければならないという風潮の中、就職氷河期世代を、医療面からさらに支援する施策など、当然生まれようもないので、働く元気を失った人間は、少なくとも現状の医療サービス以上のアシストは受けられないと確定しています。


視点2 我々も仕事の選り好みをする

社会復帰とは、企業との関わりを再開する、と言い換えても差し支えないでしょう。

実質的に、私たちのような現役と見なされる世代の場合、社会への入り口は企業であることがほとんどだからです。

これについては、実はこの考え方こそが視野狭窄に繋がっていると私は考えていて、企業を入り口としない社会参加について、もっと検討を深めたほうが良いという主張をしたいのですが、ひとまずそれは後ほど行います。

「40代以上の再就職は困難だ」などと言うと、「いやいや、人手不足の業界は山ほどあって、40代以上でも採用する企業もたくさんある」という反論が飛んでくるでしょう。

しかしながら、就職氷河期世代の厄介なところは、全世代のなかでとりわけ、ブラックな職場に対しての目が肥えている点です。

働き方改革以前のブラックな職場に、散々すり減らされたトラウマを持つ多くの氷河期世代は、「2度とあんな働き方はごめんだ」と、福祉や運送や製造、土木や飲食など、人手不足が叫ばれている業界を避ける傾向が強まっていると想像します。

私は現在、某企業にて契約社員として働いていますが、今の職場を選んだ基準は、「生活保護よりマシか」というものでした。

生活保護よりも使えるお金が増えて、生活保護よりも人間扱いされる職場。

このたった2つのシンプルな条件でフィルタリングするだけで、40代以上も募集している求人票の大半が表示されなくなります。


だから我々が捨て身のドロップアウトを実行するのは無理もないこと

そもそも元気のない我々が、実質的な社会の窓口である企業に深く絶望し、「もう騙されないぞ」と解くことのできない警戒心に囚われているわけですから、どこにも出て行けず部屋に引きこもるのも当然の成り行きです。

生活保護なり、経済力の太い実家なりの後ろ盾があり、さらに40代を迎え「自分の人生の限界」を受け入れざるを得なくなり、よほど良い職場(=社会)に出会えないのであれば、引きこもりなどのドロップアウトを、甘んじて(人によっては喜んで)受け入れるのも自然な選択です。

若い頃に貧困で且つ多忙という生活だったので、リアルの人間関係も当然希薄ですし、ネット上のバッシングなど、自分に見えないようにするのは至極簡単なので、もはや彼を止める術はありません。

無敵の人の完成です。

以上、2つの視点から、一定程度の条件を満たした人は、2度と社会に復帰できないリスクがあったとしても、ドロップアウトを実行せざるを得ないと考えている理由をお話しました。


私たちは20年ほど早い「老後」を迎えた

臨床心理士の桝田 智彦(ますだ ともひこ)氏の記事『「ひきこもり」は「氷河期世代の男性が圧倒的に多い」という実態』では、内閣府の調査結果において、ひきこもり状態の人への「就職・進学を希望するか」という問いに対して、「希望していない」の回答が60.9%にも及んだと紹介されていました。

舛田氏は「就職先で傷つけられた体験などから、疲れはて、社会そのものに希望を失って、今ではもうすっかり諦め、仕事を探す意欲もわかない人たちが数多くいることを、この数字は物語っているのだ」と述べています。

またこの記事の中では、就職氷河期世代のひきこもりの中で「正社員として働いたことがある人」が73.9%だったことにも注目しています。

就職氷河期世代のひきこもりの半数以上は、職歴なしのニート型ではなく、職歴ありの社会絶望型とも呼べるような状態であるということです。

私は、この記事を読んで、就職氷河期世代のひきこもりは、自主的に早々に「老後」を選び取っているのではないかと思いました。

過酷な社会情勢のもと、魂をすり減らして、やるだけのことはやった。

生活保護や親の資産という「年金」を少し早めにいただいて、あとは静かに、そっと、余生をやり過ごしたい。

もし仮にそのような人がいらっしゃるのであれば、私はその人の選択を積極的に支持しますし、当チャンネルは、20年ほど早く始まった老後生活に役立つライフハックを発信していくための動画でもありたいと願います。

就職氷河期世代は、失われた世代(ロストジェネレーション)と呼ばれることもありますが、失われたのは現役として稼働できたはずの20年分のやる気、なのかもしれません。


社会の入り口は企業だけではない

そっと静かに、「余生」を送りたい。

そういう気分で安定しているかたには、ひとまずこの動画でお伝えできることはこれ以上ありません。

ここから先は、まだ社会に未練が残ってしまっている人に向けたお話になります。

よくよく自分の気持ちを分析すると、2度と関わりたくないのは、社会ではなく日本企業である、という人が少なからずいらっしゃることを、先に紹介した桝田 智彦氏の記事が示唆しています。

一世を風靡したアドラー心理学では、他者を仲間であると認識し、仲間のために生きることで、その「共同体」に自分の居場所が見つかる、と説いています。

また、自分の居場所があるという感覚を「共同体感覚」とも呼んでいます。

アドラーは、社会の最小単位は「あなたとわたし」であると定義し、必ずしも職場や学校、地域社会といった一般的な意味での共同体を意味しない点も、面白いところです。

企業で働くことがうまくいかなかっただけで、「社会そのものが嫌になった」と、主語を大きくしすぎているとしたら、それは少しもったいないかもしれません。

私は、以前の動画で、就職氷河期世代を生み出した政治の失敗を、「日本の悪意」と表現し、その悪意には対処が必要だとお話しました。

私なりに実行した「日本の悪意」への対処の1つは、日本政府から発信される「働いて納税しろ」というメッセージを無視して、生活保護を受給しながら気に入ったボランティア活動に参加するという行動でした。

生活保護のケースワーカーに諸々秘密にして事を進めることも、簡単に実行可能なように思えましたが(人手不足できめ細かなチェックにまで手が回っていないのは簡単に理解できました)、後々発覚して問題にされるのも面白くありませんでしたので、きちんとケースワーカーには報告しました。

ただ、その前の根回しとして、当時お世話になっていた精神科の主治医に「社会復帰へのリハビリを兼ねて、興味のあるボランティア活動に参加したい」と相談し、OKをいただいておきました。

主治医からもお墨付きをもらっていると一言添えれば、ケースワーカーは何も言ってはきませんでした。

むしろ、私が前向きに生活を立て直そうとしていると、喜んでくれているようにも見えました。

あなたがイメージしているような社会復帰ではないような…、と内心では思っていましたが、当然そんなことは口には出さず、私も彼に合わせてニコニコ微笑むだけでした。

これで私は、堂々と税金で生活しながら、自分が本当に意義を感じる活動に参加しても良い身分を手に入れました。

この頃の私は、半ば本気で、生活保護費を原資としながら、やりたいことだけやっていく生活を送っていこうという気持ちでいました。

ホームレスの支援、障がい者の就労支援、生きづらさを抱える人を対象とした電話相談員など、気が向くまま、様々なボランティア活動に関わっていき、大げさに言えば「自分の人生」を取り戻すことができたように思えます。

ここでお伝えしたいのは、社会への入り口は企業だけではない、ということです。

少し視野を広げて考えれば、合法的に勤労と納税の義務を回避しながら、自分の望む形で社会と繋がることを可能にするやり方だってある、ということをお伝えしたかったのです。


こちらが「選ぶ側」に回るということ

考えてみると、私たちはいつも「選ばれる側」でした。

企業や志望校に「選んでください」と頭を下げて、言われるがまま試験を受けて、不合格となれば「努力が足りない」と責められました。

しかし、冷静に考えると、なぜ20年も早まった老後生活を迎えてなお、私たちは「選ばれる側」体質を引きずる必要があるのでしょうか。

もはや奪われるものも、失われるものも持たないということは、誰にも何も、人質に取られているものはないのです。

かつては、「大企業に就職すれば安定できる」や「日本は豊かな国だ」という甘い言葉に踊らされて「幸せになれる権利」を人質に取られながら、私たちはされるがまま「選ばれる側」の人間として、卑屈に生きるしかない奴隷でした。

「幸せになれる権利」が失われた代償として、「選ぶ側」に回る自由がちらりと顔を見せています。

生活費に何の心配もせず、好きな場所へ行き、好きな情報にアクセスし、好きな人とのつながりを求めるような生活を理想とすればいいのです。

それを可能にする「年金」の原資を、各々たっぷりある時間で考えてみてはいかがでしょうか。

当然、お金持ちの上級国民様のような選択肢がそこにあるわけではないですが、それでも1度くらいは「選ぶ側」の丘の上に立って、自分が這いつくばっていた「選ばれる側」の強制収容所を見下ろしてみる価値はあると思います。

少なくとも、20年早まった「老後」の、退屈しのぎくらいにはなるはずです。

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