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塗りたくられた後を生きている − ゲルハルト・リヒター展 − 豊田市美術館2022.10.15-2023.1.29

はじめに

話題のリヒター展。「行ってきたよー」というと必ず「めっちゃいいよねー!」「リヒター最高!」と好反応が返ってくる人気ぶり。でも私は、その反応を見るたびに「リヒターって…有名なんだ…!」と内心びっくりしていた。そう、恥ずかしながら、ほぼ彼とその作品について何も知らない状態で美術館へ行ったのだ。

自称・美術好きとしては、それはそれで貴重な体験だったのかもしれないなあ…と今になって思う。とはいえ、それを言い訳にあぐらをかいていてもいけないので、その後すこし調べ学習したりした。せっかくなので、自分のまとめも兼ねて感想を書いていきたいと思う。
ただ、調べはしたけれど、その忠実な紹介というよりは自分が感じたり考えたことを正直に書きたいなあ…と思うので、一般的に言われているリヒター観とは違う部分もあるかもしれない、とあらかじめお断りしておく。きちんと勉強したい方は学芸員さんの記事とか見てね!

参考になった動画

ちなみにこちらの動画が分かりやすくて参考になりました。


電車で行くとこの入り口から入るよ

まずは入口から。今回は初めて電車で行ってみた。

わかりやすく配置された道案内のサイン ちゃんとデザインされてて好き
豊田市美術館の裏口(?) 名鉄豊田市駅から歩いてくると、ここから入ることになる

愛知県に住む美術好きの人はみんなそうだと思うけど、私も豊田市美術館が大好きだ。圧倒的な建築のかっこよさと、品のある企画展(と個人的に思っている・無闇に刺激的な展示が少ないイメージ)で、安心して足を運べる。
企画展チケットが1400円、年間パスポートが3000円と聞いて、一瞬聞き間違いかと思う。太っ腹すぎる…さすが豊田市…。もちろん年パス購入。いいお金の使い方をしたなあ〜とご機嫌な状態でリヒター展へ。

リヒター展感想

フォト・ペインティング

正月明けの平日 けっこう混んでた

入ってすぐの展示室では、「フォト・ペインティング」の有名な絵から始まり「グレイ・ペインティング」や、猟奇事件の犠牲となった看護師の写真頭蓋骨の静物画っぽいやつなどモノトーンや落ち着いた色合いの作品が多め。なんとなくメメント・モリ(「死を想え」)の雰囲気を漂わせている。

東京国立近代美術館でのリヒター展は、あえて年代順ではない構成になっていたようだ(参照:下記引用)が、巡回展である豊田市美術館での展示では、ほぼ年代順になっているとのこと。(参照:作品リスト p.4)

会場では、初期のフォト・ペインティングからカラーチャート、グレイペインティング、アブストラクト・ペインティング、オイル・オン・フォト、そして最新作のドローイングまで、リヒターがこれまで取り組んできた多種多様な作品を紹介。特定の鑑賞順に縛られず、来場者が自由にそれぞれのシリーズを往還しながら、リヒターの作品と対峙することができる空間を創出します。

ゲルハルト・リヒター展 公式Webサイトより

東京国立近代美術館の方は行っていないから何とも言えないけれど、豊田市美術館の展示空間の特性として、基本的に一方通行が前提なことと、1階と2階に分かれる構成にならざるを得ないことから年代順として構成を再検討されたのではないかなあと思う。ちなみに私個人としては、年代順の方が頭を整理させやすくて好き。たぶん。

最初のフォト・ペインティングや解説を見て、「この人は絵が絵として当たり前に見られている状況にモヤモヤしてたんだなあ」と感じた。芸術表現が抑圧されていた東ドイツでの日々。「良し」とされる絵画と「それ以外」。絵画や芸術の定義について、たくさん疑問を膨らませたんだろうな。「自由」であるはずの西ドイツに移ってからもそれは続いて、生涯に渡ってリヒターが取り組んでいくテーマ…作品における主観性の排除とその不可能性との拮抗…に連綿と引き継がれていく。
こんなに曖昧なんだぞ、自分達が見ている世界も、描かれたものも。って。静かな怒りが伝わってくる。それは特定の人物や思想・社会へ向けた怒り、というよりは、もっと根源的な、自身も含めた意識ある存在の在り方それ自体が孕む危うさへの、どうしようもない苛立ちに思える。

アブストラクト・ペインティング

次の部屋では、モノクロから一転してカラフルな「アブストラクト・ペインティング」の作品群が並ぶ(写真撮り忘れた)。突然目に飛び込んできた鮮やかな色彩に、テンションが上がる。気持ちいい。

スキージで塗りつけられた画面。当初はパレットに残った絵の具を写真に撮って、それを拡大して忠実に描いていくという手法だったそう。フォト・ペインティングの試みの発展みたいな感じだなあと思う。パレットの写真=具象(そこに実際にあるもの)をリアルに描写してるから、実際は具象画なんだけど、どう見ても抽象画にしか見えないものを作ってしまうという。アクロバティックな皮肉。
でもそこからさらに発展させて、リヒターは偶然の要素を取り込んだ。それがスキージという、絵筆に比べてコントロールが及び切らない道具の使用。具象にしろ抽象にしろ、そこには一人称「私」の意図が含まれていることには変わりないから。

ちなみに「アブストラクト・ペインティング」は直訳して「抽象画」。抽象画に抽象画ってタイトル付けるなんて挑発的〜。私は詩を書く人間なのだけど、自分の詩に「現代詩」って付けれるかって考えるとそんな勇気ない。既存の権威に喧嘩売る感じ。

カラー・チャート

少し進むと、カラフルな正方形を敷き詰めたような「カラー・チャート」が見えてくる。これはその名の通り、絵の具の見本帖をもとに制作されたそうだ。

奥に見えるのが「カラー・チャート」のシリーズ

豊田市美術館の作品リストに、興味深い一文があったので引用する。

本展ではニュートラルな美術館の展示室に置かれていますが、こうした作品が国家や宗教を象徴する公共空間に設置するために制作されたという背景を想像してみると、リヒターの選択がまた興味深く見えてくるでしょう。

豊田市美術館 作品リストより

ふむふむ。確かにそれを踏まえると、お互いの個性を保ったまま共存する、多様性の尊重といったメッセージも感じられる。
ちなみに全ての色を混ぜ合わせるとグレーになる、ということで東京国立近代美術館の展示ではこの「カラー・チャート」が展示された壁面の反対側に「グレイ・ペインティング」が展示されるというニクい演出がされていたらしい。
豊田市美術館では、「カラー・チャート」の真向かいには細く長大な線の集合の「ストリップ」、その間の空間に「8枚のガラス」が配置されていた。「カラー・チャート」が真ん中のガラスを通して変容したような、こちらも面白い演出だなあと思った。

ビルケナウ

次に進むと、近年の最重要作品と言われる今回の目玉「ビルケナウ」シリーズが展示されていた。こちらは一部撮影不可のもの(アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りした写真4点)があったことと、なんとなくカメラを構える気持ちにならなかったので撮っていない。

今回の展覧会はゲルハルト・リヒター財団とリヒター本人の所蔵作品でほぼ構成されているとのことだが、そもそもこの財団ができたきっかけが「ビルケナウ」シリーズを散逸させないためだったそうだ。作品の概要は以下の通り。

見た目は抽象絵画ですが、その下層には、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りした写真を描き写したイメージが隠れています。リヒターは、1960年代以降、ホロコーストという主題に何度か取り組もうと試みたものの、この深刻な問題に対して適切な表現方法を見つけられず、断念してきました。2014年にこの作品を完成させ、自らの芸術的課題から「自分が自由になった」と感じたと作家本人が語っているように、リヒターにとっての達成点であり、また転換点にもなった作品です。

ゲルハルト・リヒター展 公式Webサイトより

隠し撮りされた収容所の写真がベースになっていること。その光景がキャンバスの上に描かれていたこと。それは上から重ねられた絵の具の層で隠されていること。そういった制作過程やコンセプトについて、解説ではこう触れられている。

私たちはこの作品の名前と、絵画の下層に描かれているイメージの複製写真を手がかりに、抽象的な絵具の壁を越えて、これら見えないイメージ、抑圧された出来事を想像するよう迫られます。その点で、滲み出るかのように画面に点在する赤と緑の色彩はきわめて示唆的です。

豊田市美術館 作品リストより

「ビルケナウ」を完成させてはじめて「自らの芸術的課題から「自分が自由になった」と感じたと作家本人が語っている」ということから、リヒターにとってホロコースト、戦争と向き合うことがどれほど大きな課題だったかがわかるが、それを踏まえてこれまでの作品を振り返ると、「主観性の排除」「見るという行為自体への問いかけ」という一貫したテーマの意味を改めて考えさせられる。

リヒターは人間の主観というものが、どれだけ外部の影響を受けやすいか知っていただろう。「自分の考え」「自分の感覚」と素朴に信じられているものは、実は常にその周りの環境に侵食されている。自分自身さえ、恐怖の対象であったのかもしれないなあと思った。

それにしても、この作品は「写真がその下に描かれている」ことが大前提とされているけれど、それを鵜呑みにするのは違和感がある。隠されている以上、私たちには「わからない」のではないか。リヒターの、作者の言葉を信じるしかない。隠されたものに対する無力さ、無知、どうしようもなさ。これこそ暴力なのだと思った。

オイル・オン・フォト

「ビルケナウ」を過ぎた1階最後の小さな空間には、「オイル・オン・フォト」と呼ばれる写真に油絵具などを塗りつけたシリーズが展示されていた。このシリーズが個人的に一番好きかもしれない。

若い女性らしき人物の上半身に、絵の具が塗り付けられている

これを見たとき、「私が普段見ている世界もこうなんだな」とすごく腑に落ちた。塗りたくられて、塗りたくられて、塗りたくられた後を生きている。

それにしても、こうして展示を見ていると毎回思う。筆の跡や思考の形跡が生々しければ生々しいほど、ぞくぞくと興奮してくる。誰かが考え、行動した形跡、時間と行為の交差する場の保存様式が作品だとして、そこに私が居合わせて鑑賞して、そこからまた解凍するように思考し、言語化し、こうして誰かに伝えたくなったりする。一つの作品から、無限に枝分かれしていく軌跡が見えるような気がしてくる。この瞬間が創造的でなくて何なのだと思う。

ここで1階の展示は終わり、続きは2階へ。でも大体私は、ここまでで興奮し過ぎて、2階からはスイッチが切れてしまう。名古屋市美術館もそう。2階へ上がる階段で「ふう」となって燃え尽きる。精神的な持久力が足りない。

2階入ってすぐの部屋 吹き抜けの大空間に、「アブストラクト・ペインティング」が並ぶ

尻切れ蜻蛉すぎるけど、ここでリヒター展の感想は終わり。

おわりに

ここまでつらつら作品について書いてきたけれど、こうやって文章にしていると、いつもふと虚無感がやってくる。「コンセプトを表現したいだけなら、わざわざモノつくる意味ないじゃん、言葉でいいじゃん。」って。と同時に、「いやいやそんなことないって!」という自分もいて、脳内で天使と悪魔のように争っている。(別パターンとして、「あんた作ってない癖に偉そうじゃない?学者でもあるまいし」「いやいやそういうことじゃないんだって!」というのもある。)
でも今回、天使側(そんなことないって!の方)が優勢になったのを感じた。これはリヒター展は関係なく、ただ単に年をとったからだと思う。それはどうでもいいとして、天使側の弁明を記載してこの記事を終わりにしたい。

「言葉が万能だと勘違いしてない?理解を促すために言葉の論理に落とし込むことは過程として必要だけど、それは補助的なものであって、全てではないよ。とはいえ、作品だけでも不十分だ。世界の現象や物語がある瞬間・ある地点=人の中に凝縮して、それが再び世界の中で別なかたちで表された。それを人間は、あらゆる方法で補い合って理解しようとしているんだ。」

それがどんなに小さな作品であったとしても、それを私たちが解釈しようと行動するとき、世界そのものと向き合っているのだと信じたい。もし新実在論の立場をとって「世界は存在しない」とするのであれば、無限に意味の場を創造し続ける試み(=世界は存在しない、その構造を成り立たせている原理そのもの)とも言えるかもしれない。芸術とは、決してアーティストの独壇場ではなく、作品とそれを能動的に解釈する行為の両方を指すのだと思う。

当たり前のことなのかもしれないけれど、腑に落ちるまで私はずいぶん時間がかかったな。もちろん全ては仮置きだけど。
芸術がこういったものだとして、それに価値をつけるとはどういうことなのか?今後はその問いを頭の片隅に置いてじっくり育ててみようと思う。