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低スペックの自分にもたねはまけるか

本日堀潤さんが委員長をされている「アイリス」さんの『#わたしもたねをまく』のキックオフミーティングが開催されたようで、そのライブ配信を拝聴した。

わたしもたねをまくキックオフミーティング
https://m.facebook.com/events/443219132980685

そこでは、分断でできた傷を手当てするために、どういった具体策があるか?についてディスカッションされていた。そのディスカッションを聞きながら私が考えていたことは、

お互いを認め合うこと、お互いにOKを出し合うことは可能なのだろうか

ということだった。

ディスカッションでは、「環境」「働き方」などといった、分断が生まれやすいと考えられるキーワードをもとにどう分断をケアしていけばいいかについて、参加者の方々が意見を順に発表されていた。

例えば環境では、知らず知らずのうちに自分が誰かを傷つけている可能性を考えるだけではなく、実体験として持っておく必要性を提案される方、海外(米国)と比較して、日本では発言できる層が限られていることから誰もが発言できる環境の必要性、もどかしい体験を共用する必要性について提案される方がいた。

私なりに解釈すると、自分自身が分断のあちら側こちら側いつでも行き来する可能性があり、その可能性を考えることでものごとを他人ごとにしない、ということだと思う。そう考えるとどの意見も納得できるものばかりであった。

でも、とふと立ち止まったとき、なんでもかんでも自分ごととして捉えたとき、とても疲れるなと考えてしまう自分がいた。
ものごとを自分のこと、他人事と考える必要があるとしたら、そこで分断は生まれてしまうのでは、とも。

低スペックの私でもやれることはあるか

私はメンタルタフネス的な観点からいうと、とても脆い人間だ。日本で起こっている、世界中で起こっている対立を自分ごととして捉えるのは無理だということは揺るがない自信がある。そんな私でも分断でできた傷のためにやれることはあるのか、それとも無関心でいて自分を守しかないのかと考える。

正直言って無関心は楽だ。自分のみたいことだけをみて、好きなことだけ追いかけるのは楽だ。でも、リテラシーを上げていきたいという欲求があるのもまた正直なところだ。

堀潤さんは常に公倍数で考えるのではなく、ブレイクダウンして考えることの重要性を説いている。

ディスカッションでも話がでたが、平和という言葉ひとつとっても私と私以外のひとでは指す状態が異なっている。あなたの平和は間違ってないし、私の平和も間違っていない。両方正解であることを認めるしかないとおもう。

ということで、私のできることはやはり、私は私で認める。他方(があるのはやむを得ないと思う)、あなたの考えを認める。の、認め合うことを考えていくこと、その上でどういうやり方があるのか一緒に考えることくらいしか出来そうにない。

そんなことが可能であるかはわからない。答えはないし、きれい事なのかもしれない。