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短編小説「腹ん中」

※良い朝食さんからのTwitterリプライ「増えるわかめ」よりー
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私が学生で、生活に困窮していた頃の話である。

幸いどこでも寝られる、性欲はそれ程強くないと、その2つに関しちゃとんと困らなかった。

しかし食欲。これは兎に角旺盛で苦労した。
空腹の虚しさは何にも代えがたい。
そんな私は、安く入手できて、少ない量でも腹の中で膨らむものの追求に日々勤しんでいた。パンの耳なんかを恵んでもらって、水で膨らますなんてのも随分やったが、やはり何か栄養をと考えた私は、乾燥わかめに手を出した。

乾燥わかめを味噌汁にぞろっと入れたら、たちまち増えて驚いたなんて話を同回生の男に聞いた私は、その脚で自宅近くのマーケットへ向かい、乾燥わかめを買い求めた。

すぐさま家に帰って味噌汁を拵え、わかめをぞっと入れてみた。なるほど、これは良い。これで食物繊維もミネラルも摂取できる。

それから暫くわかめの味噌汁を飲んで過ごしたが、少し飽きてきていた。

ところでこの乾燥わかめというのは、そのまま食べても美味しいのだろうか?とふと疑問に思って口に放り込んだ。
うむ、少し塩気があって、素朴な味ではあるが悪くない。おしゃぶり昆布の様で、案外クセになるかもしれない。

私はラジオをつけて寝転がると、乾燥わかめをしゃぶりながら聴き入った。そして時折水を飲んだ。
それから30分か、はたまた1時間程が過ぎただろうか。
乾燥わかめの袋に手を伸ばすと、そこには何もなかった。
はて、ずいぶんあった様に思うのだけれどな。
ぼんやりそう思いながら水を飲んで、ラジオを切ると床に入った。

とてつもない重苦しさ、否、息苦しさ?そういったもので目を覚ました。枕元の時計を見ると深夜の2時を5分と過ぎたところ。起きあがろうとするが起き上がれない。
どうしたものかと身体を検めてみると、異様に腹が膨れていた。それが些か異常な程であるとすぐには気付けなかった。まだ寝ぼけ眼である。
腹をさすると、なに、まだ膨らんでいる様な気がする。
まさかわかめか、わかめなのか。
みちみちと音がしそうな程膨らんでいる。

なんとかしたいと身体を起こそうとするが、膨らんだ腹になけなしの筋力で抗えるわけもなく。
自分の腹に跳ね返されるとはなんとも情けない。
まるで虫になったグレゴール•ザムザである。

なんとかしなければと未だ膨らみ続けている腹を揺すって、身体を転がしてみる。腹が下になった瞬間に吐きそうになる。しかし理性がそれを抑えた。ここは吐いてしまった方がいっそ楽かもしれないのに、人間というのは非常に格好つけである。
そうやってゴロゴロとガタついていると、隣人がその音に目覚めた様である。

「うるさいわ、何時だと思っているの?」
というセリフと共にドスンと壁を殴る音がした。

「助けて」
裏返り間近のとても情けない声が息と共に出た。
果たして聞こえたかも怪しい。

そうして恥ずかしさと苦しさで目をぐるぐるとさせていると、ドアを開け閉めする音が聞こえ、目の前に女がやってきた。隣室の女だ。

「なにこれ?どうなっているの?」
私のお腹に手をやって、難色を示している。
「それが…」
一通りの事情を説明すると、実に呆れた表情で私を見下ろした。
「貴方ね、わかめはヘルシーだけれど、食べすぎればヨウ素の取り過ぎで甲状腺異常だって起こすのよ?何考えてるの?」
立つ瀬がない。いや、そもそも今立てないから瀬に立てる状況でもないし、瀬を想像したら更にわかめが膨らんだ気がして吐きそうになった。

悪態をつきながらも女は私を見守った。
なんとも表情の読みにくい女である。
しかしこの女の顔をしっかり見たのもこれが初めてであった。

女は時折私の腹を撫でた。
そして暫くすると、痺れを切らしたのか、ついには腹を揉んだり押したりしだした。

何かが込み上げて、いや何かなんていうのはよそう。
白々しい話である。
私の中にはわかめしかなかったはずだ。
わかめが込み上げ、吐き出され、私は呻きながら、気を失ったと、翌日女から聞いた。
女はなかなかツンとした嫌なタイプであったが、私に甲斐甲斐しくしてくれた様だ。

私は「空」になった腹のあたりと、その腹に残る感触を思い返していた。
次は、何を、食べようか。

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