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ゲーフラ達20周年。その①スタートと歩み※中島君登場

2000年:運命の歯車が回りだす

2000年4月、通う大学が大阪芸大になった事を機に、生まれ育った神奈川県を離れ、たまたま住んだ所が長居公園の目の前だった。元々、中高とガチ野球部やったが、高校の最後の方で肩と肘が壊われかけた事もあり野球はもうやる気は無く、何かスポーツは、、、と思っていた所、丁度、目の前の長居公園でプロサッカーの試合をやっていると聞き、初めて見に行った所、2000年1stステージの優勝争いをしている【セレッソ大阪】がそれだった。最初は座って観戦・・・という感じの軽く手を叩く程度。

2000年、当時を思い出すと、モリシの神出鬼没な動きとトラップどこにでもいるような運動量とゴール、アキのダイナミックなプレーとシュート・バイシクルボレーとゴール、西谷のキレキレのドリブル、田坂の懇親的な守備、ノジョンユンの鋭いクロス、ユンジョンファンのテクニックと天才的なパス。その魅力的なサッカーの虜になるには、全く時間は掛からなかった。
今で言うと、すぐに【沼】にハマったのだ。ここから運命の歯車が回りだし、いつの間にか応援するサポーターと言われる人達の近くに行くようになり、手拍子や声を出し【応援】をするようになっていた。

2004年 初ゲーフラ作り

そして時は流れ(色々と出来事はあるが今回は省略にて)、2004年。
社会人になっていた自分は某仕事をこなしながら、大学生時代の勢いという応援では無かったがそれなりに試合に来ていた。当時一緒に応援していた人達と行動を共にする事も多く、大学生時代からお世話になっている人達でもあった。
ある試合後、平野区にある某七輪焼肉を食べている時だったと思う。

某本部長「NBはゲーフラ作らへんのか?」

思い出せば、ふとそんな会話をしていたと思う。当時は、観客もサポも今よりは確実に少なく、4万人は入る長居スタジアム(現ヤンマースタジアム長居)で多くても半分の2万人ぐらいで、ほとんどの試合が1万入るかどうかみたいな人数しかいない時代だった。その為、観客やサポーター仲間を増やす事も課題だったが、今いる少ない人数で『どう多く見せるか』という課題もあり、その1つの解決策が、1人1人各人でゲーフラを持つ事で、『人が多くいるように見せられないか』という事だった。

NB「ゲーフラですか・・・一体何を描いたらいいのか、、、」
某本部長「何でもええと思うで、Cerezo、でも、大阪、でもええと思うし」
某関西支部長「芸大出身なんやから、絵上手いやろ?」
NB「あ、いや、どちらかと言えば映像系ですので、絵の方は・・・」

当時のゲーフラといえば、確かに【大阪】とか【セレッソ】とかチームに由来するモノや【勝】という単純なメッセージだったり、漫画・アニメ系でも、ドランゴンボールの悟空、キャプテン翼などがあったと思うが、どこのJリーグのチームでも見るような在り来たりなキャラものだった。しかも自分自身は、絵描きが上手い訳でもなく、ビックリするようなデザインを生み出すようなデザイナーでも無かった。軽くデッサンをした事がある程度のレベルである。

某アフロの人「サザエがマスオさんに〇〇されているやつとかエエヤン」

今ではコンプライアンス的に絶対にアウトな表現ではあるが、当時、吹田とのダービーでロビーが鎖に繋がれているビックフラッグやGボーイにロビーがイジメられるようなビックフラッグが普通に掲げられるような時代だった。当時イタリアのセリエAで見るような過激なやつイメージである。

NB「いやいや、そもそもそんな絵はセレッソ関係ないですし。しかもそんな絵上げたら警備員に絶対捕まるやつですよwww」

そんな他愛もない会話だったような気がする。
しかし、この【サザエさん】というフレーズがその後も頭を離れなかった。
そんな次の日曜日、自宅でいつものようにサザエさんをTVでぼーっと見ていた。磯野家はいつもの日常を過ごし、絶対にサザエがマスオに〇〇という場面は絶対に出てこない。出てくるはずがない。カツオと中島くんがいつものように野球をしていた。翌週の放送でもカツオと中島君が野球をしている。

ふと思いついた、
中島君がサッカーをやっていて、しかも、もし、セレッソ大阪サポーターをしていたらどうだろうか?
いまだかつて他のJリーグのチームで見たことがないデザイン、何かアイデアが【下りてきた】ような、そんなボンヤリとしたイメージをスケッチブックに描いてみた。

『前向きなメッセージを伝えたい』

当時、インターネットで流行っていた2ちゃんねるの用語で、【GJ】があった。GOOD・JOB(良い仕事)の意味である。
それを中島君がグッド👍ポーズにしてみるのはどうだろう。
Tシャツはやっぱり中島のN(NBのNでもあるし)、そして、サポーターらしくマフラーを巻こう。こうして大体ゲーフラに描くデザインは決まった。ただ顔が似てなかったので、サザエさんを録画して停止したTV画面を薄い写し紙に描き写して、顔のデザインは仕上げた。

布は、当時手書き幕を描く材料を買っていると聞いていた難波のとらやに買いに行き、紹介された絵の具は、水に溶ける水性のような感覚で、乾くと完全耐水性になるアクリル絵の具のリキテックスを梅田の画材屋に買いに行った。
サイズ感として、横は両手を広げた90㎝ぐらい、縦も90㎝ぐらいとして、下書きはA3サイズだったんで、コンビニで何回か拡大コピーした後、鉛筆でデザインを布へ下書き。マッキーの黒で本線を描いた。色は絵の具の青が薄かったので黒を少し混ぜてセレッソの紺に近い感じにし、ピンクは売ってなかったので、赤と白を混ぜてピンクにして塗った。GJは目立つように、そして派手に金色にしようと思った。

こうして、初めてのゲーフラ:中島君が完成した。
ゲーフラの棒は長居駅の近くの100円均一で園芸棒(緑)の細長いやつを2本買った。実はこの棒をまだ使っていたりする。なんという耐久性だろうか。

そして長居スタジアムのホーム試合でデビューしたのだが、どの試合で初めて掲げたのか全く覚えていない。たぶん勝ち試合だったと思う。何か恥ずかしいような、嬉しいような、そんな感覚もあるが妙に周りから注目はされているような気がしたデビューだった事だけは覚えている。

何試合か掲げ続けたのだが、試合前は上げれるとしても、引き分けや負け試合で出すゲーフラではではない、という事に気づいてしまう。
そして、次作品を考え出すのだが、これは、次回書き起こす事とする。

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