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朝顔咲いた(けっして忘れないこと)

4月に父が亡くなった。93歳だった。
次の火曜日には一緒に朝顔の種を蒔く予定だった。
芍薬のつぼみが膨らんで 咲くのを楽しみにしている最中だった。

80歳ころから母と共に家のものを整理したり、母と私と姉に宛ての「引継ぎ書」をPCに残していた。父が85歳の時、予定外に母が先に逝った。「引継ぎ書」の内容を父は、姉と私宛に変えて更新した。

メニューの数はそう多くなかったけれど、自分で料理もできたし、心臓の手術後ずっと主治医から処方されてきた10種類ほどの薬を間違えることなく 朝晩自分で管理して飲んでいた。
介護という言い方は当たらない。私が日々一緒にいたのは お喋りするため、一緒に囲碁を楽しむため(私が教えてもらうため)、夕食の時間を共に過ごすため、くらいだった。

前日は一緒に歯医者に行った。入歯の一本が折れたのが気になって、予約はないけれど すぐに治したいという。調べて電話すると その日の朝の内に診てくれる歯医者が見つかった。
一緒に出掛けて入歯を直し、いつもの寿司屋でお昼を買って帰った。

かかりつけ医での以前の血液検査の結果、貧血が気になるので 翌週の金曜には検査する予定だった。
本人に別段不調に感じるところ(入歯以外は)無かったようだったが、最近疲れやすいことや好きだったお菓子などの間食が減ったことなどは気になっていた。けれど まさか翌日にはもうここに居ないなんてこと、本人だって思いもよらなかったと思う。

夜中に私の部屋の入口で呼んだ時は普通に立っていた。
ベッドに座って、何だか胸の辺りが「気持ち悪い」と言う。
「救急車呼んで」

寝ぼけていたのもあるし、はっきりと「呼んで」と言われたのは幸いだったのかもしれない。いつもの私なら「朝になったらお医者さん行こうね」とか言って危機感も持たず、背中でもさすっていたかもしれない。

急変だった。搬送先で様々な検査や処置の後出て来て、狭い簡易ベッドでは
寝心地が悪くて背中が痛いと言うので背中をさすり、用意ができた病室に行った直後だった。
待合の個室からでも、異変は解った。父の名を何回も呼んで意識を確認する看護師さんの声が聞こえた。あまりに予想外の展開で訳が解らない。

一旦意識は戻ったと言われ 声を掛けた。声掛けにうっすら目を開けた時
視線が合った気はした。
「さよなら」なのか「まだ生きたい」だったのか 何事か解らないままだったのか、想像するしかない。

哀しい寂しいよりも 未だにその不在がよく解らないままだ。
寝室もレイアウトを変えて幾分片付けたし クローゼットの中身も少しずつ見直している。
それでも 写真に「おはよう」と声を掛ける時も、寝室の窓を開けて風を入れる時も 本当に居ないという実感が全くわかないのだ。

新聞を止めた。通帳や各引き落としの手続きも済んだ。
でも、一番の違いは一日2回、3回の囲碁の時間が無くなったこと 思い出話を聞く食事の時間、気になったことを一緒に調べること、古い映画を観た時に、話題を振ることが無くなった。
「じーたんが居ないとつまらないよ」
空に向かって愚痴る日々だ。

猫も 夜中のトイレに出て来る父の姿をその時間、時間に ドアの前で待っている。

私たち子供と孫に向けた 感謝とユーモアにあふれた「遺書」は 公的な効力は全くない。けれど戦後と高度経済成長期、様々な仕事で苦労した父だけど、全力で生きて 笑って、愛して、様々な物事への興味や探求心と 面白がるその心を十分に伝えてくれるものだった。

「80を過ぎた人には淡々とさよならを言ってください」なんて書きながら
93歳まで明るく生きて 感謝の言葉までくれた父に、喜んでもらえるように日々過ごしていこうと思う。


予定通り検査して、結果によったら入院とかもっと深刻な選択を迫られたかもしれない。誰に告げても、羨ましい亡くなり方だと慰めてくれる。

だけど、やっぱり 父がいないとつまらない。
こんな風に思わせてくれたことに 本当に感謝しかない。





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