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彼岸の蜉蝣

文藝MAGAZINE文戯11 2020 Summer
掲載の作品です。お題は「あの世」

◆彼岸の蜉蝣(ひがんのかげろう)◆ 


──池の向こう側が彼岸
──ひがん?
──そう、「あの世」

深く暗い森のような庭の隅にその池はあった。花の時期を外れた蓮池は、水面とそこから突き出す葉ばかりでひっそりとしている。彼女が指さした「彼岸」側の木々の隙間から見える空は、ほんの僅かの間に夕焼けの色を広げている。茜色に染まった世界は引き込まれるように美しかった。

**
「おさだかなこです。よろしくお願いします」

黒板に几帳面そうな小さい字で「長田加奈子」と書くと、転校生はそれだけ言ってぺこりと頭を下げた。艶のある黒髪、白い肌。美人の転校生が来たと男子生徒が騒ぐのに反比例して女子の視線は厳しかった。サダコ、と女子の中で誰かが呟くと冷たい笑いが波状に広がった。

もともと病弱な彼女は療養のために曾祖母の住むこの田舎町へ一時的に越して来たと聞く。そんな理由も、クラスに馴染もうとか友達を作ろうとか、そういう必要を本人にも感じさせなかったのだろうか。体育を見学し、行事や練習の日に欠席し、どの女子グループにも属さないまま、凛として前を向き彼女は静かに日々を過ごしていた。

「サダコ」のあだ名を決定づけたのは 彼女の曾祖母の家が、地域で有名な「お化け屋敷」だったことだ。高い煉瓦塀に囲まれた屋敷の内部は、塀より高く育った大きな樹々から想像するより無かったが、なによりその住人の老女を見た子供はずっと居ない。小学生の頃はよく「肝試し」と言って、僕たちはその大きな門のあたりまで行った。ジャンケンに負けた者は一人、そこに残って怖々中をのぞき見、わぁーっと意味なく叫んでは慌てて引き返したものだ。そんな長田の住む「お化け屋敷」に入ることができたのは、あの日の急な雨のせいだった。

*
雨の予報もなかったのに、下校時間に雨が降り出した。幼い時分から子供に傘を持ってくるような考えや時間の余裕のある親を持たない僕は、当然のように濡れて帰る。まだ掃除をしている奴らの目を盗んで先に教室を出た。

ちょうど「お化け屋敷」の前まで来た時、雨は更に激しくなった。仕方なく塀沿いに歩き、突き出した大枝の下で雨をしのいでいると、ひらひらした飾りの付いた黒い傘を差した長田が、こちらに向かってくるのが見えた。片手に何か大事そうに持っている。
──ああ、持って帰ってきたんだ
それが何なのか 僕にはすぐに解った。

さっきの掃除の時だ。女子が窓ガラスに当たって死んだ小鳥を見つけた。触るのを嫌がって遠巻きに見る奴、ふざけてゴミ扱いする奴、可愛そうだとか言って泣く素振りを見せるくせに何もしない奴らの中で、すっと近づいて小鳥の亡骸をハンカチにくるんだのが長田だった。そんな騒ぎを背にしたまま気づかないふりをして先に帰ったことを 気にしていなかったわけじゃない。

「そんなに濡れたままじゃ、身体に悪い、拭かないと。えっと…」
「吉岡」
「吉岡くん」
隣の席のクラスメイトの名前くらい覚えとけよ、僕がそう言うと、長田は「すみません」と、悪びれた様子も無く首をすくめ、ハンカチの中の小鳥を落とさないように気遣いながら重そうな門扉を開け、僕にも入るように促した。

鬱蒼とした前庭の奥にずっしりと重厚感のある洋館が姿を現す。
「ただいま帰りました。ひいばあさま」
返事は聞こえなかったけれど、曾祖母に雨のことなどをあれこれ話しかけながら長田は奥に入り、玄関先で戸惑ったままの僕を少し待たせて、大判のバスタオルとタオルを何枚も持って出て来た。濡れた髪を拭き、カッターシャツを脱いでバスタオルで身体を包むとほんのり温かい。借りたドライヤーで髪とシャツを乾かしながら。少し離れて立つ長田の横顔を見る。教室の席は隣でも、こんなに遠慮なく彼女を見るのは初めてだった。

「お弔いをしないとね。一緒に来てくれる?」
僕の髪があらかた乾くのを待って、やっと彼女が口にしたのがその言葉だった。気が付くと雨は上がっていた。


小鳥は花壇の隅、萩の花の下に埋め、ふたりで綺麗な石を探して墓標にした。庭は長い間手入れをされていない様子で、大きく枝を広げた樹木はうねり、つる草が絡みついている。足元も丈高く伸びた雑草が地面を覆い、歩くとザクザクと陰気な音を立てた。日当たりの悪い場所は苔むし、柵や庭仕事の道具の金属は錆び、木の箱や枠は朽ち、触れるだけで崩れ、折れた。そんな庭の様子に目を奪われている間に、隣にいたはずの長田が居なくなっていた。慌てて辺りを探す。何だか彼女が消えて無くなったというか、最初からそんな子は居なかったんじゃないか、一瞬そんな風に思えた。

「長田、どこ?」
気づかないまま随分と庭の奥まで来ていたらしく、辺りは更に丈高い草に囲まれている。草を踏み分けて進んで行くと目の前に蓮池が広がった。その向こう岸に長田が驚いたような顔で立っている。池に掛かった小さな橋を渡って彼女のところにたどり着いた。
「蓮池?なんかここだけ和風な感じ」
小さい頃、祖母と一緒にこんな蓮池のある寺に行った覚えがある。西の岸に仏像のあるお堂、東側にはたしか五重の塔があった。夕陽に輝くお堂の方を指して「あっちがゴクラクジョウド、ほとけさまの国」と、祖母は僕に言って微笑んだ。

「驚いた。そっちから人が来るの、初めて見た」
長田はそう言って僕をまじまじと見つめ
「生きてるよね」
と、少し笑った。長田が笑ったのを見るのは初めてだった。

「ひいばあさまが言うの。吉岡くんが来た方、この池の向こう側が『彼岸』」
「ひがん?」
「『あの世』。母も、結婚して父と初めてここに来た時にそんな話を聞かされたって。母は気味悪がって、今でも決して近寄らないし、私にも絶対に行かせようとしなかった」
──なるほど、じゃあ今、僕はあの世から来たわけだ
僕がそう言うと 長田は少しの間黙って、時折揺れる水面を見つめていたが 唐突に僕に聞いた。

「あの世で一緒になりましょうなんて約束、叶うって信じられる?」
返事に困り、逆に聞き返す。
「長田はどう思うの」
僕の質問に答える代わりに、長田は予想もしなかった話を始めた。
「親の決めた婚約者がいるのに他の人と恋に落ちて、当然大反対されて引き離されたの。駆け落ちも心中も失敗して」
「何?何の話?それ」
「姿を消した後、その男の人、死んじゃったんだって。自殺」
昔の小説か何かだろうか、いきなり饒舌になった長田に些か混乱していると
「ひいばあさまはね、『あの世』でその人に逢えるんだって言うの。だから死ぬのは怖くないって」

姿を見せないこの家の女主人にはそんな過去があったのだ、そして自分の死をそんな風に待っているという……想像すると何だか背筋がひんやりした。
「長田は信じてる?」
「私は……」

わたしは、と言ってから長田はまた長い間黙っていた。長田の続きの言葉を待つ間、僕は池に映った木々の影と隙間から覗く夕焼け色の空を見ていた。夕闇が迫っている。
「おかしいと思わない?だって死んだ人みんな『あの世』とかに居たら」
「大渋滞かもね。けど、ああ……誰にも思い出してもらえなくなった時が『二度目の死』、『あの世』からも消える、なんて話もあったな」
「ひいばあさまの言うみたいに逢いたい人だけに、逢いたい姿で会えるなんて都合が良すぎる」
長田は僕の聞きかじりの話なんて聞いてないみたいに、勢いを増して話しを続けた。

「ひいばあさまはその後、婚約者と結婚したの。子供だって産んで……だから私も居るわけだけど。夫や子供や孫たちに恵まれてそこそこ幸せに暮らした時間もあったはずなのに」
「でも、今はひ孫の長田とふたりきりだし、いずれはお前も帰っちゃうんでしょ?」
「短命な家系でね、みんなひいばあさまを置いて先に逝ってしまう。母はこの家が怖いからって近寄りたがらないし」
「そんな怖い家に 娘をやるんだ」
「私が行きたいって言ったのよ。今まで何もやりたいことって無かったの。少しの間でも構わない、ここじゃない別のところに行きたいって、初めて親に言った。ひいばあさまやこの家には興味があったし」
「……そうなんだ」
そんな間の抜けた返事しか出てこない。長田の考えていることや感じていることを言葉の中から掬い取ることなんて、中学生の僕には出来なかった。
「死んだら『私』はどこにも居なくなる。何も残らないし何も感じない。死後の世界なんて無い。生きている人が、自分が安心したくて創ったもの、私はそう思っているし、それでいい」
ぎゅっと唇を噛んだ後 まっすぐ前を向いたまま長田は続けて言う。
「お葬式もお墓もそう。生きてる人の都合で在るの。死んだ本人にはどうだっていいことだわ」

祖母の葬儀の時、何か別のイベントの準備みたいに進めていく親や親戚に違和感を感じた。先祖代々の墓について兄弟と面倒ごとのように相談する親の姿も見た。長田の言う意味も解らなくはない。それでも、あんまりはっきりと言い切る長田の言葉に なんとなく反発してみたくなる。
「生きている人がそう思ってそう信じて、それが安心で幸せならそれでいいじゃん。あの世で逢いたい人だけに会えてそこで永遠に幸せとかさ、そういうの」
暗い目をしたままくすっと長田が笑った。笑われるとムキになった。
「ロマンチック、とかさ、そういう風に思うんじゃないの 普通の女子ってさ」
「普通の」という言葉に引っ掛かったのか、長田が弾かれたようにこちらを向いた。
「葬式とか墓って話なら……小鳥のことだって、長田が一番ちゃんとしてやったじゃん。小鳥にとってだって、良かったって僕は思ったけど」
「私が嫌だっただけ。あんな風にいつまでも教室の床に置かれたままの『命の抜け殻』も、勝手なこと言ってるばかりで何もしないあの人たちも」
長田の下された両手の拳が硬く握られる。長田が何て説明しようとあいつらより長田の方が断然優しかった、死んだ小鳥にとってだって絶対に良かったはずだ。僕は素直にそう思っていた。
風もないのに、草むらの中の一隅だけさわさわとそよぐ。どこかで風鈴が鳴る。池に小さな水紋ができる。そういう一つ一つを挙げて、僕は長田に言った。
「ああいうの全部、あの世の誰かがそばに居て、大事な相手に合図してるんだって、死んだ祖母ちゃんはよく言った。お盆の頃に舞いこんだ蝶とか羽虫とか。そういうのも」
長田が少し顔を上げる。
「お祖母様?」
「うちは両親が忙しくてさ、僕は相当な祖母ちゃんっ子」
「仲良しだったんだ」
「うん、色々よく喋った。だから余計かな。そういうの、案外いいなって思う。風になって空に居るとか、生まれ変わって出会うとか、何かに取りつ憑いてでも相手に会いに来るとかさ、そんなのも」
──何でもあり、ってことか。僕は。
そう付け加えて 照れ隠しに僕は笑った。
「吉岡くんのお祖母様になら逢ってみたいな」
やっと長田の表情も和らいだように見えた。一匹の蜉蝣が僕の前をふらふらと飛び、蓮の葉に羽を休める。

「蜉蝣ってね、成虫になったらたったの数時間で死んじゃうんだって」
池の向こう側に飛び去った蜉蝣を目で追って。長田がぽつりと呟いた。


入院と手術が決まったと、学期の終わりを待たず長田は学校を去った。突然のことだった。その前から学校を休みがちになっていた長田と何とかしてもう一度喋りたいと、プリントを渡す役を自ら引き受けて、僕は幾度かあの屋敷を訪ねた。長田も僕には気を許してくれたようで、少しずつ自分の話や面白かった映画や最近読んだ本の話などをするようになっていた。

長田の体調や病気の話に関して意識的に避けていた僕に、その日は長田の方から切り出した。
「気を使わなくてもいいわよ。死んじゃう時はそれが運命なんだって思うから」
僕の気持ちを盛り上げるように 長田の口調は今までになく軽くて明るかった。
「あの世があるかどうか、私、確かめられるかもしれないね」
長田は手渡したプリントを見もせずに机の上に置くと そんな風に言い
「『あの世』で吉岡くんのお祖母様に会えたら 私、きっと合図するね」
来てくれてありがとうと、玄関先まで僕を見送って長田は大きく手を振った。

翌日、長田は実家に帰り、「ひいばあさまの家」はまた何事もなかったかのように、誰の気配もしない「お化け屋敷」に戻った。


僕はそのままこの町で退屈で平凡な日々を過ごし、大学進学を機に地元から離れて就職した。長田は成人式を待たずに亡くなったと聞いた。

里帰りしたある日、長田の居た家の方に立ち寄ってみた。長田の曾祖母もすでに亡くなり、屋敷は更に古び、荒れて廃屋となっていた。屋敷の取り壊しも決まったらしく塀は一部壊されて工事中の囲いが巡らされていた。隙間から覗くと庭は更に鬱蒼としている。フェンスの壊れたところから入って、花壇の跡や萩を目印に探したが 小鳥の墓標は見当たらなかった。

長田と沢山喋ったあの池の渕に立って、夕暮れの空の下、「彼岸」を眺める。生れてすぐ余命を宣告されたという長田は、「死後の世界」のことをずっとずっと考えて生きていたのだと思う。生きることも死んだ後のことも、何も期待できない、期待しない方がいい、そんな考えに行きついて、それでも不安で、希望が欲しくて、迷って、悩んで。

──ねえ、長田。
僕は呼びかける。
──どこかに居るのかな。それとも、もうどこにも居ないのかな。
あの時と同じように 風の気配もないのに向こう岸の草むらの一隅がさわさわと音を立ててそよぐ。僕の肩先にか細い蜉蝣が一瞬止まって飛び去った。見上げると空高く一羽の鳥が円を描いて飛んでいる。

──あの子からの合図だよ。答えてあげな
死んだ祖母ちゃんの声が聞こえた気がした。  
          
                   了



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