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【エッセイ】変てこに歪んだ人に声かけられる系女子。

 近所に、本当に素敵な森林公園がある。

 緑も多いし、そこそこ広いのでたくさんの人が利用している。
 ある人はジョギングやウォーキングをし、ある人は犬と仲良く散歩をし、ある人たちは家族でやってきて木陰でお弁当を食べたりしている。
 かくいうわたしも、小学生の頃から何度もその森林公園を利用しており、気分が落ち込んだときや自然に癒されたい時など、公園のベンチに座って何時間もぼんやりする事があった。
 どんなにセピア色な精神状態の時でも、その公園のベンチに座れば、ゆっくりと心に色を取り戻すことができた。

 それなのに……である。


「外なんだけどもお互いに一枚ずつ服脱いでいって、そんで気持ちの良い事するって……そういうの僕好きなんですけど、お姉さんはどうスか?」


 森林公園内でそんな事を口走る男に絡まれたわたしの心は、セピア色どころか海よりも色の濃い真っ青に染まり切ってしまった。

 時刻は夕方の五時。
 空の上には熟れすぎた柿みたいな色味の太陽がまだ立っていたし、森林公園にはたくさんの人が行きかっていた。
 わたしは化粧もオシャレもしておらず、学生時代からずっと着ている(むしろ親からはそろそろ捨てろとまで言われている)パーカーと長ズボン姿で、携帯をいじりながらボケーッとベンチに座っていただけだった。
 別に出会いなんて求めていなかったし、求めている風貌でもなかったはずだ。むしろ、心底ひとりでいさせてくれというマインドですらあった。

 それなのに。

「お姉さんはどんな風に普段遊んでますか」

 ただただ気色の悪い男に声をかけられてしまった。
 突然私の隣に座ってきて、「ここら辺いい所ですよね」とか言い出してきて、思わず「あ、はい」なんて答えてしまったのがよくなかったのだろう。
 話は勝手にあらぬ方向に飛びに飛び(わたしはまともに返事すらしていないのになぜか一方的に話だけ展開していく)、男は勝手に自分の性癖をわたしにぶちまけ、支離滅裂な質問をわたしに浴びせてきた。

 わたしとこの人とでは、「遊び」という言葉の意味が違う。

 本能的にそう悟り、わたしは素早く目を動かして近くに誰かいないか見回した。
 数メートル離れた所に、大型犬を散歩しているおじさんがいた。わたしが大声を上げたら、すぐに反応してくれる距離感だ。
 わたしがそんな風に頭の中で思っていると、隣の男がまた質問してきた。

「この後カラオケとか行きませんか」
「行きません」

 はっきりNOを突き付けると、あっさり男性は去っていった。「またご縁があったら会えたらいいですね」なんてゴニョゴニョ言っていたが、あなた様とのこれ以上のご縁は金輪際御免である。
 場所が公園であり、多くの人の目につきやすいという事で男の人もすぐに引いてくれたのだろう。
 その点では公園に感謝だが……それでも、なんだかすごく落ち込んでしまった。

 誰にも言えない悩みを抱えた時、静かに自分を肯定して欲しい時、一人で放っておいて欲しい時……。

 そんな余白の時間を、この公園でひっそりと過ごして癒されてきたのに……そんな大事なスペースに土足で踏み込まれて、本当に不愉快だった。
 しかも、あの男性の何が嫌かって……『可能性』を置いて帰ったことだ。

 ――ひとりのわたしに、また誰かが声をかけてくるかもしれない。

 夕方とはいえ、まだ日が高い時間帯であんな事を言われたのだ。朝だろうが昼だろうが、ひとりで公園に行く事自体にリスクがあるのかと気が滅入ってしまう。
 日本ってそんなにリスク溢れる国だったのだろうか。

 大体、この一件に限らずわたしはああいう「変てこに歪んだ人」に声をかけられやすい。

 中学生の頃、駅でSuicaのチャージをしていたら、「小銭でいいのでお金を下さい」と男の人に懇願されたことがある。お金がないので、と適当な事を言ってその時はすぐに逃げた。
 高校生の頃、男の人に道案内を頼まれたことがある。口頭でさっさと済ませようとしたら「喫茶店に行きませんか」と言われたことがある。もちろん、逃げた。
 高校生の頃、学校の帰りにスーツ姿のおじさんに声をかけられたことがある。「前々から通学するのを見ていました。友達からお願いできませんか」と言われたので、「嫌です」と答えて逃げた。次の日から通学時間を一時間ずらして学校に行くようになった。
 大学生の頃、バスが来るのを待っていたら、知らないおじいちゃんに「バスに乗るお金をくれ」とせがまれたことがある。走って逃げた。バスにも乗れなかったので、結局家までそのまま歩いて帰った。
 大学生の頃、バイトの帰りに足を引きずったおじさんに絡まれたことがある。「足が痛い。お姉さん、僕をおんぶしてください。駅員さんは呼ばないでください」と言われた。逃げた。

 ……改めて書き起こしてみると、いろいろと声をかけられて生きてきたもんだなと思う。上の例はほんの一部で、まだ他にもエピソードはある。
 酔っ払いに「おいゴラァ!」と怒鳴りつけられたことがあるだとか、電車で隣の席になった人に鼻くそつけられたことがあるだとか……。
 よく大きな怪我や事故に遭わずにここまで生きてこれたものである。
 ちなみに、人に道を聞かれやすかったり、何かと勧誘を受けやすかったりするタイプでもある。

 とにかく、わたしは公園で出会ったあの男性みたいな、「変てこに歪んだ人」に声をかけられやすい体質らしい。
 「変てこ」「歪んだ」なんて言葉を使うと感じ悪く聞こえるかもしれないけれど、わたしの立場に立ってものを考えてみると、やっぱりそういう単語しか出てこない。
 知り合いでもない人間にそこまで踏み込めること自体、わたしにとってすごく「変てこ」で「歪んでいる」行動なのだ。

 だからといって、相手を自分の思い通りに正すことはできない。

 わたしがどんなに気分を害したとして――そしてそれが、誰がどう見ても非常識なものであったとしても――相手の人生は相手のものであって、わたしが勝手に矯正できるものではない。
 わたしが勝手に人の人生の矯正を始めてしまえば、わたしの方こそ「変てこで歪んだ」人間になってしまう。

 相手を変えることはできない。
 それなら、ちゃんとわたしはわたしを守らないと。

 NO、と早い段階で言える勇気をきちんと持てる人間になりたい。
 中途半端な優柔不断をぶら下げてここまで生きてきたわたしだけれど……だからって何でもかんでも甘受して生きていく気なんて毛頭ない。

 ――「わたしは嫌だ」
 ――「あなたの言動にわたしは好感を持たない」
 ――「あなたの要望にわたしは応えない」

 我が儘や身勝手とは関係ない、意味のある「NO」を蔑ろにする人間には絶対になりたくない。

 ……そう思いつつ、しばらく公園に散歩に行くのは控えよう、と寂しく頭を巡らしながら、わたしはこの文章を書いているのだ。

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