ナズナ

気ままに、自由に。

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最近の記事

能登半島地震についての徒然

 2024年1月1日、能登半島を中心とした大地震が日本を襲った。今回深刻な被害を被った志賀町、輪島市、珠洲市、穴水町、七尾市は2007年にもマグニチュード6.9、いわゆる能登半島沖地震が発生しており、このエリアをなぞるように活断層が広がっているという。原因について、流体の存在が騒がれ、はたまた人工地震と陰謀論が囁かれ、究明にされないまま被害は今もなお深刻化を止められずにいる。同時期には不幸な事故として羽田空港の衝突事故が生じ、挙句の果てには無用な争いまでもが徒に相次ぐ混乱へ落

    • エモさとはなんであろうか。

      エモい。こんな言葉にもWikipediaページが存在しており、その概要を覗くとエモーショナル、えもいわれぬといった感情を示す言葉と定義されているようだ。僕の理解では状況や状態に対して共感し、肯定的な意見を主張する際に、感想に困ると使用できる容易な単語として市民権を得ているように思う。自身もエモいエモいと多様することで安さに身を置くことを許している。が、いったいどういうシチュエーションにその言葉を形容しているのか少し定義づけてみたい。題材は最も適材と思われる進撃の巨人を取り扱う

      • 情けないリリーフランキーの足取りを眺めながら

         万引き家族を垂れ流しながら。  祖父が危篤状態に陥った。危篤と言っていいのか、正式な判断は分からないのが実態ではあるのだが。86歳を迎える祖父は、かつて癌診断を受けたものの治療を拒み、施設へ預けられることも、更なる医療機関に診断されることも拒み、煙草を吸い、ウイスキーを嗜む道を選んだ。存命の祖母も、または僕自身の母親を含んだ3人の息子娘も、その態度に自業自得だと厳しい意見で訝しみ、せめてと医師の訪問だけは祖父に妥協させた。その最中、おそらくトイレへ足を運んでいたであ

        • ウソはホンモノの夢を見るのか。

           「窮鼠はチーズの夢を見る」。対象となる作品は察しの通りに、ブレードランナーよろしく、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」になぞり、叶わない願望にも縋ってしまう切なさを、アンドロイドを同性愛者へ換骨奪胎した内容だった。誰に感情移入できるかによって見方が変わるタイプのラブロマンスで、サブスクにどこにでも落ちているため、興味があればクリックすればいいと思う。別に誘導しようという意図はなく、粗筋も無視して、自分の感想だけ述べることにする。  同性愛を対象にした作品であれば、いく

        能登半島地震についての徒然

          よふかしのうた/と自分語り

           日常に退屈した青少年が、初めて体験する夜の世界の、そこはかとない好奇に魅せられて、ずっと続けばいいのにと願った時に、吸血鬼と名乗る少女が現れる。恋愛感情を向けた吸血鬼から吸血行為へ至る時に、人間は吸血鬼へと生物の形を変えるのだとの告げられ、恒久的な夜の住人になるために吸血鬼になることが自身の目標へと据えることから物語は進み出す。  これが簡単な粗筋だ。小五月蝿い自分語りと併せて、ただ語りたいのがこのブログの主な趣旨だ。駄文に違いないが、練習がてら。  よふか

          よふかしのうた/と自分語り

          どうしようもなく嘘つきの君に

          ☆☆☆  テレフォンカード。財布を新調し、カード類の内容物を入れ替えのため整理した際に見つけた。携帯電話が普及した昨今では、旧世代の遺物といっていい代物だ。あまりの使用頻度の低さを、40度以上の度数の蓄えとなって現れており、ほとんど新品といっていい状態にあった。小学校に入学した時に渡されて以来、ずっと肌身離さずに持ち続けた。転校を繰り返してきた自らの履歴として、数多くの自宅であった電話番号がそこに記されていた。自身の居場所を忘れまいとする健気さが、どうやら自身にもあったらしい

          どうしようもなく嘘つきの君に

          「ライ麦畑で捕まえて」

           映画「ライ麦畑で出会ったら」の劇場は赤いハンチング帽を被り、自分こそがホールデン・コールフィールドだと主張したい人間達で賑わっていた。  エンドロールの幕が降りた時には啜り泣いている声も漏れていて、同一視する人間は今でも居ることを思い知らされたわけで、少し自分の中でも振り返ってみようと。 「ライ麦畑で捕まえて」  永遠の青春小説、はぐれ者のバイブル。要人の殺害者がこぞって愛読書としていたことからも思想誘導効能を真面目に議論された金字塔。野崎孝に続き村上春樹が翻訳に挑み、

          「ライ麦畑で捕まえて」

          不自由であることと不幸なことはイコールじゃない。哀れに思われる言われはないよ。

          冒頭の言葉は「鋼の錬金術師」から。だけれどここで記述したいのは「聲の形」という漫画について。 聴覚障がい児童であったヒロインと、異物という刺激的なコンテンツとしてイジメを愉しんだ主人公。 その過去を後悔し、また自身の存在の価値を低俗なものと当てはめ、懺悔の心で臨んだ後ろ向きな贖罪行為を重ねる中で、良くも悪くも再び過去との繋がりを意識し、そして自壊の道を歩んでしまう。 崩壊の道筋を築いてしまったのはあくまで自分なのだと、ヒロインも自身の存在意義を文字通り問い直してしまい、自

          不自由であることと不幸なことはイコールじゃない。哀れに思われる言われはないよ。