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空を見て、「空きれい」って、言いたいね。

「空きれい」
精神的打撃を受けて心神喪失の状態になり、呆然として虚空を見上げているさまを意味する俗語。主にネットスラングとして用いられる。
引用:Weblio辞書

この言葉、特定の世代にはよく響くネットスラングだと思いませんか。

自然と、あの「上向いて口開けて茫然自失している顔」が思い浮かびます。もしくはアヘ顔なのだけど、その話はやめておきますね。

俗語は都市伝説に似ています。
「始まり」を特定することが難しい。

かつて世界中で、都市伝説が広まったのはなぜか。
それは「友達の友達」という、近いように思えて全く遠い謎の人間からの伝聞です。であるはずなのに、「友達」という親密性のある言葉によって信憑性が高められてしまうからです。

「Aさんの友達のBさんから聞いた」ならまあ、多少の意味の取り違えくらいはありそうだけれど。

例えば私が、会社の人から「私の友達の友達がね」と、とある情報を聞く。
私は帰宅したあと、子にそれを話します。
その時、「お母さんと同じ会社で働いている人の、友達の友達がね……」とは、言わない。
その段階でもう、子の興味は失せてしまいます。

せめて「聞いた話なんだけど」もしくは「同じ会社の人の友達がね」程度にちぢめるでしょう。
そうして、「最初の人」は、遠く遠くなっていく。

たまに、「私こそがこの都市伝説(または俗語)を生み出した!」と宣言する人もいます。
特に俗語はネット上で広まったものだと、すぐに元を辿れることも多いですね。
でもその「最初の人」の存在は、都市伝説ほどには広まらない。
その始まりを見つけ出すのが都市伝説研究です。面白い分野ですね。


話は変わって、私は趣味で小説を書いています。
そして私は影響を受けやすいので、執筆時は他人の小説を読めません。

ファンタジーの話を書いている時に『甲賀忍法帖(著・山田風太郎)』を読んでいると、
「ソフィリアはおのれの背へとぶきみな視線をむけられたことに気づき――きゅっと全身をひきしめた。」
みたいに、突如として場面が戦国時代になってしまいます。

そんなこんなで執筆を続けるうち、小説を書くことに対する自分の知識が、明らかに不足していることが分かってしんどくなってきました。

単なる知識だけでなく、構成力。説得力。文章力。企画力。

知識がなくても、ある程度は書けるんですよ。
でも、それではどうしても書けないものがあることが、分かってきた。
でも書きたい。でも書けない。
頭を掻きむしって叫びまくりたいぐらい、苦しかった。

なので、少し休むことにしました。
執筆をやめるのではなくて、休む。
その間に読書を再開して、執筆の参考にしようと思いました。

私にとって字を書くことは、やめられません。
本当は書かなくても生きていけるのに、書かなければ生きていけないと、思いたいのです。

そして現在、積んでいた本などを読んでいますが……
やっぱり活字は面白い。楽しい。
漫画も映画も大好きだけど、文章を目で追っていくと、脳細胞がいちじるしく活性化するような快感がたまらない。

ファンタジーの、めくるめく冒険の数々。
ミステリーの、矢継ぎ早に浴びせられる謎。
学問の入門書の、明瞭に知識を供与する懐の深さ。

読書は楽しいなあ。

活字に埋もれてしみじみと実感し、読みながら感想を書いていました。
というのも私は、物凄い速さで物事を忘れてしまうからです。
感じたことをただ単に書いただけの文章は、もちろん支離滅裂。
でもその時の、心の動きは分かる。
どこで共感し、号泣し、納得し、感動したのか。

そんなことを数日続けていたら、頭の中に活字がいっぱいになって、ちょっと疲れちゃいました。
次に、このnoteと、Twitterのアカウントを新たに作りました。

小説ではなく、感想を書いたり、思うことを書いたりしてみよう。
そう思っての行動でした。


また話が変わります。

私は、空が好きです。

子どもの頃からよく、空を見上げてぼうっとしていることが好きでした。
ドッジボールの試合中、飛んでいた雀を目で追っていたら、いつの間にか周囲に自分一人だけしかいなくて、強烈な一撃を喰らったこともあります。

あと学生時代は、大きな川の河川敷に行ってぼんやりするのが好きでした。

家の近くではないけれど電車で行くほどでもないので、自転車で。
川の側にはベンチがあって、そこでよく煙草を吸いました。
(ほぼ20年前の話ですが、携帯灰皿はもちろん持っていました)

見わたす限りの大空。電車の音。野球の練習の掛け声。
そして聞こえる、川の水のちゃぷちゃぷという、小さな音の連なり。

人間関係も面倒で、親の脛をかじるしかない自分も嫌で、でもそこでは、何もかもから離れていられた。

今でも私は、空が好きです。
引っ越しをして住宅密集地から離れ、一番うれしかったのは、道を歩いていて空が大きく見えることでした。

晴れた空が一番好きですが、嵐の前のどんよりと陰鬱な雲も好きです。
燃えるような夕焼けの赤、沈みだしていく群青のあわい、そんな日没前後も大好きです。
そして夜空にかがやく月も。

満月が近くなると、自宅の寝室には、月光で影がうまれます。
太陽よりも格段に小さいあの衛星の反射で生まれる、青白い光。

昔は月光のことを「月影」と言いました。
「影」は「光」なしには存在せず、「光」そのものをもあらわす言葉でした。

月を眺めていると、「皓」という字が思い浮かばれます。

「皓」
音読み コウ
訓読み しろい・ きよい・ ひかる
①しろい。白くかがやく。ひかる。あきらかなさま。「皓歯」
②きよい。いさぎよい。

引用:goo辞書

そうして私は子と「明るいねえ、きれいだねえ」と話して眠りにつきます。
皓とした月影で満ちる空は、どこまでも優しい。

今の私が「空きれい」状態であることは確かなのですが。
空を見て単純に、「空きれい」と言っていきたいな、と思った次第です。

Photo by Євгеній Антонов on Unsplash

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