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吉本ばななさんの本を久々に読んで救われた話

久しぶりに、吉本ばななさん著「体は全部知っている」所収の「みどりのゆび」を読んだ。

私はかつて吉本ばななさんの文庫本を買いあさり、特に好きな本は何度も何度も読んでいたほど、ハマっていた。

お気に入りの本を挙げたら枚挙にいとまがない。
「キッチン」はもちろん、「デッドエンドの思い出」「チエちゃんと私」「High and dry(はつ恋)」「海のふた」「ハチ公の最後の恋人」「みずうみ」「王国」シリーズ、「よしもとばななドットコム」のエッセイシリーズ。
他にもたくさん。


20代前半の頃、「そこまで好きだと、宗教みたいに思える」と言われた事がある。
私は元々何かに依存する傾向が強かった。

そう言われても特に気にしなかったのは、彼女の本を読むと、私は問答無用に救われていたからだ。
そうとしか形容できなかった。ただ泣いて、ただ救われてしまう。その感覚を味わいたくて、繰り返し読んでいた。

それから何年も何年も経ち、出産してからしばらくは、「よしもとばななドットコムシリーズ」の育児の部分を読み返して、共感したり励まされたりしていた。
けれど最近は多忙にかまけて、本の購入も読書も出来なくなってきていた。


そして今、「みどりのゆび」を再読して。
救われていたのは、子どもの頃の私」だったと気づいた。


私が持っている彼女の本の多くは、家族や親しい人を喪失した話が多い。
今まで何度も味わってきて、またいつかは味わうもの。哀しみだけではない複雑な感覚を、否応なしに思い出す。
そして物語が終わる時、主人公とともに私は救われている。


いくら年をとっても、大人のように見えても、私の中にはいまだに、大好きだったおばあちゃんを亡くして泣いている子どもがいる。

それはやっぱり、強烈な経験だった。
私は11歳で、祖母がどんな病気だったのかは知らされていなかったが、緊迫した病室の中で息も絶え絶えに喘ぐ祖母を見て、死期が近いという事実を否応なく突きつけられていた。
その日の夕方、祖母は亡くなった。


吉本ばななさんのデビュー作、「キッチン」を読んだ時の衝撃とカタルシスは、今でも覚えている。
二人暮らしをしていた祖母が亡くなってしまったみかげが、変わった家族に助けられ、奇妙な明るさと複雑怪奇な人間関係の果てに、ある道を選ぶ。

主人公は、生い立ちや環境からして全く私とは異なるのに、まるで私のことのように感じた。
その時、小説自体を初めて読んだ訳ではない。それまで読んだ小説でも映画でも漫画でも、登場人物に感情移入することはたくさんあった。
だけど、「これは私の物語だ」とつよく思った。

それからは、ひたすら彼女の作品を読んでいたような気がする。
もはや精神安定剤のようだった。

もともと私は口下手で、素直な気持ちを伝えることが苦手だ。
「素直」という言葉が嫌いで、親に反発ばかりしていた。

 「素直になりなさい」って何なの。
 今は意地悪な言葉しか思い浮かばない。
 その、思ったままを言うことが「素直」なの?

子どもの頃は、いつもそう思っていた。


そして歳をとった私は、親の言う「素直」と自分の「素直」の意味が、違っていたことに気づいた。

親は「人に逆らわないこと」。
私は「ありのままであること」。

その違いを、当時の私は、親に言えなかった。
自分の思う「素直」の定義を、親の怒りに圧されて正せなかったことは、今でもしんみりと思い出しては辛くなる。
だからなのか、私は今でも自分に自信が持てない。人の意見ばかりを鵜呑みにする。影響されたり染まったりして、一通り動揺して疲れる。


吉本ばななさんの本は、そんな私にも優しい。
傷ついた人を優しくすくいあげる。寄り添う。こんな夜があったのだと、こんな時間を過ごしたのだと、そうでなくても思ってしまう。

人は、他人には言えないとても個人的なつらさを抱えて生きている。
本当は皆そうなのだけれど、簡単には語らないし語れない。
彼女の本を読むとき、私はそのことを思い出す。

あたたかくて、嬉しくて懐かしくて、そこから離れられなくなってしまう。
でも、ここから歩いていかなければならなくて、だけどいつでも戻ってきていいからね、と優しく見守ってくれている。

私にとって彼女の本たちは、そういう類のものだ。
そしてこれからも、形を変えて寄り添ってくれるように思う。


いつもありがとう。これからもよろしくね。
私の本棚の列を埋める吉本ばななさんの本たちに。
そして何より吉本ばななさんに、心からの敬意を込めて、伝えたい。

Photo by Sharon McCutcheon on Unsplash

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