見出し画像

「自分が間違っているんじゃないか」という不安から抜け出せずにいる。

たとえば、子どもを叱っている時。
感情に任せて勢いで怒鳴りつけてはいないか?

もしくは、他人からの善意を断ってしまった時。
時間の都合があったから遠慮してしまったけど、もっと上手い返し方があったのではないか?

自分は間違っていたんじゃないか?

この「呪い」のようなものはどこから来て、私に植えつけられてしまったのか。漠然と思う。原因を探しあてて糾弾したい、という訳でもない。

「この世で私が一番不幸だ」と言えないほどには、世間を見てきた。更にいえば、今はSNSで簡単に他人の個人的事情を知ることができる。私よりも大変な目に遭ってきた人、現在進行形で苦しんでいる人。

私は昨年末に精神を病んで退職し、今はほとんど家にいる。
目を開けて起きていると、過去の失敗体験が襲ってくる。慌てて好きなものや人のことを、無理やり考える。もしくは寝る。そうすることで、記憶の強化を薄れさせていく。
人は忘れる生き物だから、忘れないと生きては行けない。
だけれど、忘れることが出来ない病気の人がいるということも知っている。そういった人たちに、私は「人は忘れる生き物だから」とは言えない。

多様性とはそういうことだ。
構造主義もそうだった。
自分ではない誰かの立場、自分が属していない社会を想像すること。
それを突き詰めていくと、どうして私の場合は「私が間違っている」になってしまうのか?

おそらくそれは、他人を責めるのが怖いからだ。
他人を責めて嫌われるのが怖いから、自分を責めることしか出来ない。
他人に「あなたは間違っています」と面と向かって言えない。もしくは、思えない。だから内側に溜め込んで自分を責めることで、「あれは間違っていたのか?」という疑問を解消しようとする。

他人を攻撃するよりも自分を攻撃した方が容易いから、今までなんの疑問も持たず、そうしてきてしまった。
その積み重ねが現在だ。

自分が正しいなんて思えない。
物事に責任を持てない。
人生に正解はない、と言うのは簡単だけれど、迫りくる自虐的意識を耐えている時間は苦痛だ。楽になりたいとも思うけれど、死ぬのは怖い。

みんなそうやって生きている。
でもだからなんだと言うのだ?
私には、あなたの苦しみを想像出来ても理解はできない。あなたがそうであるように。

一番怖いのは人間だ。
だから私は自分自身も怖い。
感情のコントロールがきかなくなって、大声で泣いたりしてしまうのが怖い。人前では普通そうに振舞っていても、帰宅すると全身に疲労と苦痛が襲ってくる。あの時ああ話したのは正しかったのか、良かったのか。

どうして正誤にこだわる?
「正しくない」ことはそんなに怖いこと?
法廷ではないこの場で、この身体の内で、一個人の主観でしかないその判断に、なぜそこまでこだわるのか。
そんな自問自答をずっと繰り返している。

「これでいいんだ」と笑って流してしまえる人が羨ましい。
その人も影で泣いているかもしれないのに、もしかしたら過去に辛いことがあって今そういう考えに至っているかもしれないのに、無責任にもそう思う。

気持ちの切り替えが下手なんだな、とは感じる。
そのくせ、自身の感情を把握できていない。
加えて今は冬で、家に籠っていて、暗い気分になる話題ばかりだ。

いつだって「今」を通り過ぎているのに。
通り過ぎた後のことなんて、誰も知らないのに。

いつか、「これでもいいんだ」と口に出して言いたい。
それまでは、ひたすらにやり過ごしていくしかない。

「自分が間違っているんじゃないか?」
この疑問に、明確な回答はない。

瞬間ごとの判断には結果が出る。それはそれで終わり。失敗と感じるなら反省し、次に生かす。成功なら自分を褒めて、次に活かす。その繰り返しだ。
最終的な結果は、全てが終わる時にしか分からない。それだって、他人の評価にしか過ぎないんだから。

冬に籠り、春を待つ。
何を言ってるんだか、立春の日に。
可笑しくなって、すこし笑った。

Photo by Federico Beccari on Unsplash

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?