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コインランドリーについて(2024.06.28)

[ここからは1,000文字に含みません]
九日目です。
外はあいにくの雨模様で、外に出るのが億劫な季節の訪れを感じます。
昔は外に出るのが億劫といえば冬だったのですが(山形は雪が深かったもので)、最近は暖冬で雪が少なくなってしまったし、その分夏は暑くて少し寂しいものがあります。
私にとっての冬は雪と沈黙でした。センター試験の前日に神社に向かって叫んだ誓いすらも雪は包んでとっておいてくれて、おかげで私は近隣の方から怒られずに済みました。
もう随分前のことです。

季節外れの雪の写真。「ゆき」が「行き」とか「逝き」に類するとしたら、ちょっと怖いけどちょっと素敵。

[ここまでは1,000文字に含みません]




コインランドリーについて書いていく、よーいスタート。


日常にある場所の中で一番好きと言っても過言ではありません。
ただたくさんいくかと言われるとそんなことはなくて、そんなところも好きなのです。完全に日常の中に溶け込んではいないというか、普段は自分の世界の中にはないけど意識するとはっきりと見える異界のような、そんな存在だと思っています。
コインランドリーほど不思議な空間はないと思っています。夜更けでも昼を切り取ったみたいに明るいし、役割をなんら変えることなくずっと、思い返せばよくわかない大きな機械が動き続ける場所。

思うに、コインランドリーは「洗う場所」であるという点が魅力に大きく関わっているのではないでしょうか。
日本という国には「汚れ(ケガレ)」という信仰が現代でも根強く残っています。それは直接的な衛生面ということももちろんですが、「ここにあれがあった」というような思念的な部分も含む概念です。
場所に残ると言えばいいのでしょうか、それゆえに日本ではお風呂・お手洗いなど「水によって汚れを流し消す場所」に対して強く意識を向ける傾向があると考えています。(日本のトイレは海外と比べ物にならないくらい綺麗ですが、これもケガレ信仰が元になっているのではないでしょうか、一刻も早く汚いものを押し流してしまいたいという)

そう考えると、コインランドリーは「お金を払ってケガレを落とす場所」と捉えることができ、さすれば神社やお寺と同じことをやっていると言えます。小銭何枚かをお賽銭に、自分のケガレのついたものを大きな口に入れて
ゴウンゴウンという聞き慣れない音と共に自分の一部だったものが洗われて、綺麗になって帰ってくる。

これは本当に、お参りと同じなのではないでしょうか?
そう思うと、暗い中でひときわ明るいのも暗闇に指す巧妙に感じますし、重いものを持っていくのも何かの修行のように感じてきますよね。




……ただ、ここまで書いておいてあれなのですが。
本当にあれなのですが。

個人的には、コインランドリーについてあんまり語るのは野暮かな、という思いもけっこうな割合で私の中にはあったりします。
あの場所はなにものでもなくて、あの場所で洗濯が終わるのを待っている間の自分は本当に隔絶されたなにものでもない自分で、なんかそれが“良い”気がするのです。
なにものでもなくて良い場所なんて、今や世界には珍しく。
ただ待ちぼうけられる時間なんて、そんな贅沢はありません。

終わるまで衣服が回るのを見ていると、あれがローディング画面に見えてきます。
ナウローディングの間は、この世界には何もない。
その時間だけが降って湧いた自由で、きっと一番大事なものなのでしょう。







(文字数:1089文字)

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