私の"Vision"

突然ですが、私はいわゆる「記憶力」が低いと思っています。

高校時代に散々やった部活での出来事はあんまり思い出せません。
大学時代に散々行った旅行先での出来事もあんまり思い出せません。
ついさっき考えたことも、テキストとして残していなければ、すぐに忘れてしまいます。

昔は「私はこの経験を目にしっかり焼き付けるから、写真なんかいらないよ~」とよく言っていましたが、それは嘘でした。
写真もメールももう残っていないので、思い出すきっかけがなかったのです。

「自分の思考や言葉は、他人に認知された時に初めて、他人の脳内に存在し始める。
自分の思考を言語化し、他人に認知される機会が増えた時に初めて、社会に存在し始めることになる。
誰にも認知されなければ、自分の思考や言葉は自らの脳内電気信号と共に消えていく。」

認知できる状態で残っていない情報、つまり言語化されていない情報というのは、存在しないも同然です。
学生時代には気づいていませんでしたが、このことは今の私に大きな影響を与える課題となります。


時は流れて、縁あってIT業界に入り、お仕事をするようになりました。

配属された現場では、具体的な作業内容がすべて言語化されているわけではありませんでした。
今までのアルバイトでは経験したことのない、抽象的な業務指示の数々。
最初の頃は、そこに慣れることができずに苦労していた記憶があります。

そんな1年目の終わり頃、私の「原体験」とも言えるような出来事が起こります。
具体的には明かせませんが、その仕事は、1度しかチャンスがないような「本番」と表現できる仕事でした。

その仕事で私は「〇〇さんが主担当だから」と思い、準備が不十分な状態で本番に臨んでしまったのです。
しかし、実は主担当の人が割り当たっていない日程があって、その日は自分に全ての質問がくることとなってしまいました。

当然、準備をしていない質問には答えることができず、多くの課題を残したまま本番は終了。
準備をしていれば解決できた課題も多く、大きな後悔の気持ちが残ってしまうことに。

この出来事は、「本番の前には徹底的に準備しよう」と思うきっかけとなりました。
同時に、この出来事の後、以下のような言葉を上司からかけられます。

「"自分は"どう考えたん? ・・・ただ単に情報を右から左へ流すだけの、メッセンジャーボーイにはなって欲しくないなぁ。」

この言葉がきっかけとなり、私はそれまで気づいていなかった、自分が起こせる”変化の可能性”に気づいたのです。

「他人は変えられないのだから、自分が動かなければ欲しい物を手に入れることはできない。」
「他人に変化を求めることは、自分にとっても他人にとってもマイナスにしかならない。」

私はこのように思い、他人に期待し、他人の行動を求めるのではなく、自らすすんで行動するようになっていきました。

自分が知らないこと、気づいていないことを”知る”、”気づく”。
“気づき”によって、自分をより良い方向に変化させ続ける。
このサイクルを回すことで、他人に変化を求めなくても、自分の仕事を、自分の人生をより良くしていける。

本番での失敗という原体験は、そのような大切なことに”気づく”機会を私に与えてくれたと感じています。


さらに時は流れ、今年2021年、私は新たにSNSでの発信を始めました。
最初のきっかけは、趣味でやっている女装の写真をアップする場所を探していたことです。

Twitterにて発信を始め、少しずつフォロワーも増え始めてきた5月ごろ。
私の人生に影響を与える”変化の可能性” - LinkedInとの出会いがありました。

LinkedInでの投稿は、Twitterと比べると緊張感があります。
周りは大企業の取締役やCXO等、素晴らしい人ばかり。
一エンジニアとしての自分がどのような投稿をすればよいか・・・。
アウトプットのやり方を試行錯誤する期間が続きました。

LinkedInに投稿し始めたことで、自然と投稿内容を考えるようになり、その他のメディアでも自分の考えを発信する機会が増えていきます。
本や記事を読んでインプットし、投稿で言語化してアウトプットする。
その流れが徐々にでき始めてきた頃、とある技術系オンラインイベントにて、技術同人誌を書こうというセッションがありました。
そこでまた、”変化の可能性”につながる言葉を聞くこととなります。

「誰かが書いていたって、それでも書いたらいいじゃない」

やさしくて力強いこの言葉に、素晴らしい可能性を感じたことを覚えています。

今回、私の”Vision”を書くにあたってこの言葉を思い出し、改めて発信・投稿について考えました。
その私なりの答えがLinkedInでの以下の投稿です。

誰かが発信していたとしても、自分が発信する意味はある。
"誰かの発信"が届かず、"自分の発信"のみが届く人は、必ず存在する。

もし世界中の人々にもれなく”誰か"と"自分"の発信が両方届くとしても、それでも自分が発信する意味はある。
発信される情報の絶対量はマイナスにはならない。

もしその発信が自分以外の誰にも届かなかったとしても、まだそれでも自分が発信する意味はある。
少なくとも、"自分"だけはその発信によってさらに自分のことを知ることができる。

たとえその発信が一瞬のスパークだったとしても。
そこから生まれた波動が一陣の風となり、実は誰かの人生を変えているかもしれない。

自分の発信する言葉が、自分の粒子がどこかの粒子と交わることを想像しながら、今日も私は発信をする。

自分が情報を言語化し、発信することで、誰かに”変化の可能性”である”気づき”をもたらすことができるかもしれない。
そのように考えるきっかけとなった、大切にしたい言葉です。


冒頭にも書きましたが、私はいわゆる「記憶力」が低いと思っています。
学んだことや考えたことをできるだけ早く言語化しないと、脳内から出ることなく、すぐに消え去ってしまう。
いつからか私はそのことを「もったいない」と感じるようになっていました。

言語化するということは、放っておけば消えてしまう情報を可視化し、コンテンツとして残すということです。
言語化せずに放っておけば、残る情報の量はゼロになりますが、コンテンツとして残しておけば、少なくともマイナスにはなりません。

それだったら、せっかくだからより多くの情報をコンテンツとして残していきたい。
かつては脳内に残る電気信号の余韻だけで満足していた私も、今ははこう考えています。


最後に、上記で書いてきた経験や考えがどのように私の”Vision”につながるのかについて少しまとめて、締めくくりたいと思います。


認知できる状態で残っていない情報、つまり言語化されていない情報というのは、存在しないも同然です。
言語化し、コンテンツとして残すことによって、情報は初めて自分の脳内から外の世界に出ていきます。

言語化し、コンテンツとして残った情報は、誰かに”変化の可能性”である”気づき”をもたらすことができるかもしれません。
より多くの情報が残っていれば、それだけ”気づき”を生み出す可能性が高まります。

過去の私は、”気づく”ことによって、他人に期待せずに、自らすすんで行動するように変化しました。
“気づき”(= ”Realize”)の機会は、人生におけるターニングポイントになり得ます。


「自分が情報を言語化し、発信することで誰かが”気づく”かもしれない。
そうすれば、”気づき”の機会がないことで損をする人が少しは減るのではないか。
もし発信が届かなかったとしても、情報の量はマイナスにはならないのだから、やはり発信する意味はある。」

“Realize”の機会を増やし、「知らない、気づいていないことで損をする人」を少しでも減らしたい。
“Realize”によって、「他人に変化を求めなくても、自ら変化していくことで幸せになる人」を増やしたい。


そう考えた今の私の”Vision”は以下のとおりです。


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私の”Vision”

「一人でも多くの人の "Realize" をつくる」

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私はこれからも、情報を自分の脳内から引っ張り出しながら言語化・発信を続けていこうと思います。

この発信が誰かの”Realize”につながることを願って。

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