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東日本大震災〜2023〜

あれから12年
干支が一廻りした
変わったこと、変わらなかったこと

あの日は金曜日で、東京ビッグサイトの展示会場で出展していた。
最後の1日だった。

揺れが来て、あれ?収まらない??
展示会場から外へ向かう人々が出口に溜まっている。
外に出ると、お台場に煙が上がり、ヘリが飛ぶ湾岸地帯を眺めながら
「私は、親に骨も拾わせてあげられないのか……」
と思ったことを、覚えている。

ケータイで、ディズニーランドの車が流されているのを見て「ここも、もうすぐダメになるんじゃないか?」という話をしながら、ビッグサイト内の床に職場の人たちと座り込んだ。
先輩が買ってきてくれた売店の東京土産を食べた。
公衆電話は長蛇の列で、自動販売機は売切ればかり。

海上のゆりかもめであの瞬間を迎えた出向先の上司が、見たこともないような真っ青な顔でやってきた。

夕方になり「もう津波は来ないだろう」と1階展示場で片付け、地震の影響で渋滞し、予定時間に着かない撤収トラックを待った。
結局、トラック来るまで待ったっけ??

その後、交通網はもちろん麻痺していて、かといって、ビッグサイトで朝まで待つわけにもいかず……私たちは、とりあえず、会社か自宅に向かうため銀座に向けて歩き出した。
ひたすら歩いた、とにかく寒い帰り道、東京の夜景は、空が澄んでとても綺麗だった。
築地方面の陸地に着くまで、いくつかの橋を渡ったけど、橋はところどころが割れて、水が噴き出していた。
途中のコンビニでは、肉まんが売り切れていた。

陸地に着いた頃、都営大江戸線が動き出した。
ありがとう、都営大江戸線。
最寄の1駅手前まで行けた。
西武新宿線はまだ不通だったから、地元の駅の中華屋で、同僚と生ビールを飲むことにした。
寒かったけど、疲れた体にビールは滲みた。
(福島第一原発の事故の後、この中華屋は一時中国に帰国してしまった)

その後も数日間は、汐留の某本社ビルは度々よく揺れた。
街から食材が消え、計画停電が進められた。
我が家は新宿区で灯りが消えることはなく、弟や停電地区の友人が泊まりにきた。

この経験をきっかけの1つとして、これまで行ったことがなかった気仙沼や南相馬を訪れた。
都民ボランティアに参加する私に、弟(当時、仙台に住んでいて、大学院のラボは建物が傾き立入禁止となり、しばらく自宅に帰れたくなっていた)は
「野次馬やろ?」
と言った。

野次馬上等!!
野次馬も、継続は力なり。
興味を持つこと、持ち続けること、できる範囲で支えること。

12年経った今年は、検索するだけ。

https://www.search311.jp/


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