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『灯せよ、光』

 「良識」とは何か--。ぼくがぼくなりに、その核心に迫るきっかけとなったのは、皮肉なことに、大震災だった。

 「令和6年能登半島地震。2024年1月1日に発生した、大災害は、石川県はもとより、北陸地方や他の地域に打撃を与えた。

 ぼくは12月31日には実家に戻っていた。
 例年どおり、次の日、元日は昼過ぎまでダラダラ寝ていた。

 起こした母の声は切迫していた。

 「今大変なことになっているのに!」
 「なに言ってんの…?」と返すスキを与えず、母はテレビを着け、凄惨な被災状況を流す映像を見せた。

 正月早々ぼくの意識は「自然の怒り」に向けられた。

 怒りの矛先を向ける相手を選ばないのが、自然なのかもしれない。

 当たり前を一瞬で崩す力がある。
 壊すのだ。日常を、想像力を。
 --容赦ないのだ。

 被害を目の当たりにしても無力感に苛(さいな)まれるだけ。
 「何ができる?」と、問いかける余裕すらない。

 いまだに、現地の人びとに、この惨状に、かける言葉が見当たらない。

 「残念」は違う気がする。--人ごとのような言葉に映る。
 「頑張れ」もどこか違和感がある。--押しつけ気味なのでは。
 「頑張る」も同様に。--背伸びをしている感がある。

 大災害を前に「言葉」は無力だと気がついた。

 情報はテレビや新聞、SNS(交流サイト)で氾濫している。--正しいそれを取捨選択するのが、今まで以上に困難になっているのだな、とも痛感した。

 錯綜(さくそう)する情報の中、何を発信するべきか、何を信じるべきなのか、今も答が出ない。

 正確には、自分なりの答はあっても、それが正しいかは分からないのだ。

 自分軸が定まっていない時に発する言葉は、他人を傷つける。

 経験則で、諸刃な言葉が人の神経を逆なでするのは、なんとなくは分かっているつもりだ。

 「つもり」にとどまるのだが。

 次に誤情報。

 鵜呑みにして良かれと思ってSNSで発信するのも非常に危険。

 「正確」か判るのに時間がかかる場合と、そうでない場合。主に二パターンに分かれるとぼくは考える。

 真偽が不明な際は黙する勇気も必要なのかもしれない。危機に便乗する、「火事場泥棒」の思い通りになってしまうのは、被災者はもちろん、(良識のある)日本人全体が悲しむだけだ。

 そうだ。

 --棄てていいモノと棄ててはならないモノ
が、おぼろげながらも見えてきた気がする。

 棄てていいモノ、というか、棄てるべきなのは「エゴ」。

 自分の正義を、有事の際に押し付けるのは、ある種の暴力とも呼べるように思える。人のかずだけ、正義の定義があるから。

 自身の定義する正義と、周りのそれとが合わないと、軋轢(あつれき)を生むおそれがある。--今は、対立する時ではない。団結する時なのだ。

 棄ててはならないモノ--極言すると「大切なモノ」--は「しなやかさ」とみている。とりわけ有事の際には。

 頭でっかちに批判一辺倒になるのではなく、折り合いがつくところでは、相互に結びつくよう努める、しなやかさ、および謙虚さが今、一番求められているのではないのだろうか。

 有事の今。

 分断から団結に。
 今こそ、過去の苦い教訓を経て、まとまるべきなのではないのだろうか。

 叡智を絞れば、ぼくたちの可能性は無限大なのかもしれない。

 無理難題ではあるが、「一つ」になれた時、これまでとは違う、明るい光景を目にすることができるのかもしれないのだから。

 何より、被災地の方がたをはじめ、ニュースや報道で胸を痛められている方がたの心に安らぎを。

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