『大きな衝突のはざまに』
何かと何かが衝突するとき、 正か誤で決めつけてしまいがちな気がします。特にその衝突の力量が大きければ大きいほど。
おそらく「正誤」の点検はラクだから。
ところが、異にする意見もあったり。自分のそれとは一八〇度違う、真逆なことも。自分の意見を尊重するがあまり、反発してしまうこともあるのでは。
「そうではない!」との意見が出、意見と意見の対立を重ねてきた方も多いでしょう(それがあるのは自分軸が確立されている、健全な証左と思います)。
それは、良く言えば多様性、悪く言えば「押し合い」。そうして相反する考えの溝が深まると「対立」が始ります。これが長引くと厄介。
正義と正義がぶつかります--。大きな衝突を前に、正義とはなにか、衝突しあうという、ある意味では、残念な歪(いが)み合いです。
となると「正義って何?」となりかねない。
そこを重視するがあまり肝心の、進行中の「衝突」に目がいかない--。自分の定義する正義と、他者の定義するそれの正しさを検証しようと躍起になりかねないのです。
悲しい限りです。
自分の意見を押し通そうとすることは。 それより異なる意見を「発見」と 解釈するのが相手を恨まず、和平的にやっていけると思えるのです。
大仰な言い方をすれば、文明の衝突を憎まない代わりに、人を憎むのは、なんだか血の通っていない行いに映るのです。
自分の意見と異にする、それの数は時に、多くなるかもしれません。伴って 「イラ立つ」こともあるかも。
少し呼吸して「観点が違うんだ」と、 割き切って、相手との距離を縮めてみては。
難しいです。ゆえに、時間が必要。
ただ僕たちは、効率重視するがあまり、人と人との温もりを二の次、いや、三の次にし、相互理解を怠ってきたのかもしれません。
溝を埋めるよう、努める--。行動には移せなくとも、念頭には置いておきたいものです。
押し合いではなく、譲り合いの社会をつくる一歩を踏み出す勇気も大切だと、締めくくります。
(了)
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