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バッハ:BWV881の強烈なストーリー性


音楽で神秘的な体験をしたので、それを文章として残したいと思う。
曲は、バッハ の平均律クラヴィーア BWV 881 だ。

私はこの曲を特に好きではなかった。しかし、ある日、この曲を聞いていたところ、この曲の持つストーリー、ドラマ性に圧倒された。
つまらない、平凡な曲が一瞬で、おもしろい映画に様変わりし、今では大好きな曲になった。この記事ではBWV881に私がどんなストーリー性を感じた(妄想した)か話す。曲のリンクは最下段に示す。

バッハの曲が秘めるストーリー性の解説はAuthenticSoundさんがしてくれていて私は好きだ。
https://www.youtube.com/@AuthenticSound/

BWV881は(たぶん)説明がないので、そんな感じの説明を私も作ってみたというわけだ。

①プレリュード
雨の日の室内で、一人の女性Aがコーヒーを飲みながらアンニュイな気分に浸って、窓の外を眺めている。女性はなぜアンニュイなのか。それは、想い人の男性Aとなんらかの事情で会えないからだ。
会いたいけど会えない。
小康状態。あの人に会えないことが、当たり前の日常になっている。女性Aは前向きに生きながら、ときおり、あの人はどうしているのかしら、と物憂げに思う。

②フーガ
場面が変わり、なぜか、女性Aは走っている。
なぜ、女性Aは走っているのか?
それは、もちろん男性Aに関することだ。
男性Aに会えないからもどかしく思っていたのに、今は走っている。
つまり、女性Aは、男性Aに会えるチャンスが来たから走っているのだ。
たとえば、男性Aは戦争に行っていたが、一時的に母国の港に帰ってきた、など。
女性Aは知らせを聞き、男性Aに会えると思って、いてもたってもいられず港に走り出した。
それがフーガのスタートだ。
曲の序盤では喜びと期待を抱きながら女性は走る(タータッタッタ、タラッタッタッタのリズム)。
女性Aは、いろいろな人に男性Aはどこですか?と聞いて回る。
ところがどっこい、男性Aはなかなか見つからない。
曲の中盤からだんだん、女性Aは必死になってくる。
もしかしたら、男性Aにもう二度と、一生会えないんじゃないか、という思いが女性Aによぎる。
女性Aはあらゆる手を尽くして、男性Aはどこですか?と色んな人に聞く。
ついに、女性Aは世界に問いかける。「あの人はどこなの!?あの人はどこなんや!?あの人はどこなんやで!?」
しかし、現実は無常。
男性Aがどこにいるか、だれも知らない。
残念至極、女性Aは結局、あらゆる手段を使いつくしても男性Aをみつけることが出来なかった。
女性にもう、あては何一つない。
しかし、それでも女性Aはどこにいくともなく走っていた。
そして、ふと港で足を止めた。
(そして衝撃の結末)
その時、港からとある1つの船が出港した(最後の一音、曲の終わり)。


〇このストーリーは、けなげな女性の悲しいお話だったと私は思うのだ。私は女性に20-30の大正ロマン的な着物の女性をイメージする。
フーガの女性の走りの小刻みさで着物を連想するのだ。

私はプレリュードの旋律で、大切な人がいた、今でも会いたいという女性に共感する。フーガでは、おしとやかだった女性が、なりふり構わず必死になっているところを見ると、頑張れ!頑張れ!ワンチャン男性に会えるぞ!と自然に応援してしまう。
そして、結局、あれだけ頑張ったのに女性は男性に会うことが出来なかったという結末に私は涙する。
なんで、女性と男性を会わせてやらないんだ、バッハって奴は鬼畜なのか!お前に人の心は無いんか!と憤慨する次第である。
女性の必死な音形に報いる男性の音形を書いて「やあ、久しぶりだね」と応答させてあげればハッピーエンドになるのに、バッハはそういうことをしなかった(たぶん駄作になる)。

やや救われない話とはいえ、運命という荒波にもまれる女性のストーリーがも面白い。
面白い小説を書く秘訣に、セイブザキャットの法則がというのがある。危機一髪、読者に猫を救えと思わせるストーリーは面白いのだ。
だから、この曲は面白い。
マニアックな記事ですがお読みいただき、ありがとうございました。

・演奏について
プレリュードの演奏が速すぎて私はなじめないものが多いです。
私は↓を聞いています。

・プレリュード

・フーガ


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