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[ナワビトFile 01 ]なわとびプレーヤー SADA #2

はじめに

『ナワビト』第1弾は、なわとびWEBマガジン『PyonPyon』の発起人でもある、縄跳道場のSADAさんを紐解くインタビュー。
#2は衝撃の新しいなわとびと出会った後、パフォーマーとしてどうやって活動していったかというお話です。

こちらの記事からお読みください。
[ナワビトFile 01 ]なわとびプレーヤー #1 


なわとび人生のスタート、そしてなわとび修行

−−大学卒業前の冬にイベントがあることを知って、新しいなわとびに出会い、卒業した夏に人前でパフォーマンスをする…
半年間でSADAさんのなわとび人生がものすごい速さで展開しましたね。

SADA 気がついたらなわとび人生がスタートしちゃった感じですね。
ただ、なわとび業界のことをあまり知らなかったので、なわとびに関する情報は集め続けていました。
初めてのなわとびパフォーマンスの時に、なわとび界のレジェンド鈴木勝己さん ※1 にお会いしたのですが、すぐ連絡先を聞いてご自宅に押しかけたり(笑)
鈴木さんは驚異的な記録をたくさん作っていて、その中でも、9時間46分1秒ノンストップで9万5267回跳び続けたという記録を持っている縄跳び歴70年以上のとにかくすごい人なんです。

※1 なわとび界のレジェンド 鈴木勝己さん

出典元:くまがやねっと情報局.“熊谷人物伝『第160回 縄跳び達人 鈴木勝己さん』”.2019年9月.https://www.kumagayakan.net/info/now/jin1502.html, (2023/09/08)

そんなレジェンドと話をしたり、各地でパフォーマンスをすることで、日本のなわとびの状況は少しずつ分かってきたのですが、ふと海外のなわとび事情はどうなんだろうと思い、英語でネット検索をしてみました。
そうしたら、ヨーロッパでなわとびのキャンプ(合宿)があるという情報を発見したのです。
迷わず参加してみたら、ヨーロッパ10カ国くらいのなわとび好きが、子供から大人までいっぱい集まっていて、毎日なわとび三昧という夢のようなイベントでした。
そこで、2人以上で一緒に跳ぶ連鎖跳びなど、単縄以外の大人数でするなわとびを体験して、もう楽しくて楽しくて。なわとびがどんどん好きになりました。
さらに色々な国のなわとび好きと友達になることができ、世界が一気に拡がりました。

Eu-Rope-Skip Camp 2000 in Denmark

個人からチームへ

−−複数人でのなわとびを体験して、一緒になわとびをする仲間が欲しくなったのがチームをつくるきっかけになったのですね。
チームメイトはどうやって見つけたのですか?

SADA ヨーロッパのなわとびキャンプに参加して、「日本でなわとび仲間が欲しい!」という思いがより一層強くなりましたね。なので、なわとびの魅力を詰め込んだ自作ビデオをバージョンアップして、全国各地へパフォーマンスに行くたびに、「なわとび一緒にやろうぜ!」と、なわとびが好きそうな人を見つけてはビデオを強引に渡しながら、普及、というか勧誘していました。
イベントで一緒だったダブルダッチチーム『RUN-D-CREW』※2 と即席パフォーマンスをすることもありましたが、やっぱり自分のチームとは違うので、常になわとび好きがいないか、目を光らせていましたよ。

※2 RUN-D-CREW(ランディークルー) 日本人で初めてDouble Dutch Holiday Classicに出場した5人組の男女混合ダブルダッチチーム。
出典元:You Tube『RUN-D-CREW』.https://www.youtube.com/@run-d-crew3169.(2023/09/08)

なかなか簡単には見つからなかったのですが、ある時なわとび好きの大学の先輩と再会するチャンスができて、熱烈アプローチをしてみたら「一緒にやろう!」って言ってくれたんです。

この時の先輩が、後にシルク・ドゥ・ソレイユの『Quidam(キダム) 』に日本人初のなわとびパフォーマーとして出演するNORIさん ※3 です。

※3 NORIさんこと田口師永さん「キダム」では唯一の日本人として13年間出演し続けた
【42カ国(217都市)で約4000回のショーに出演】

早速、2人のパフォーマンスを作ってイベントに出演するようになり「来年、世界大会が韓国で開催されるから2人で出場して優勝しよう!」と大きな目標もできました。それを達成するために「修行しないと!」ということで、世界各地のなわとびイベントを探しました。すると、6月末に全米選手権、7月末にヨーロッパ選手権があったので、「どっちも参加したいですね」とNORIさんに話したら「7月中旬はツール・ド・フランスもあるから、ついでに世界を回っちゃおう」と言ってくれました。
どんどん規模が大きくなり、結局、2001年6月21日〜8月18日にかけて【アメリカ → フランス → スイス → モナコ → イギリス → スペイン → イタリア → バチカン → ギリシャ → オーストリア → ハンガリー → デンマーク → スウェーデン → ノルウェー → ベルギー → ドイツ】と、16カ国の海外武者修行になりました。この旅は本当に楽しかった!!なわとびがあれば世界中どこでも楽しめる、仲良くなれるということを実感した旅でした。

4 年の学習2001年 9・10・11月号
海外武者修行のレポートが掲載


とにかく、上手なナワトビストに声をかけまくり、友達になり、技を教えてもらい、家に泊めさせてもらったり(笑)
国際ジャンプロープ連合(INTERNATIONAL JUMP ROPE UNION)会長のショーンと出会ったのもこの時でした。ショーンの技はド迫力で衝撃を受けましたね〜。
NORIさんと結成したフリースタイルなわとびプロフェッショナルチーム『NAWA-NAWA』としての活動を通して、なわとびの世界がより一層、急激に拡がっていきました。

ダブルダッチコンテストVol.1にてパフォーマンスをするNAWA-NAWA

2001年10月の世界選手権は、優勝は叶いませんでしたが、海外武者修行でできた仲間と共に、大会終了後、香港・シンガポール・マレーシアへ、アジアなわとび普及ツアーにも行きました。この時のアジアツアーがなかったら、今の香港なわとびの発展はなかったかもしれません。本当に行けて良かったです!

日本国内でも、様々なメディアやイベントに出演して、ノリノリの『NAWA-NAWA』に、「シルク・ドゥ・ソレイユ」のオーディションを受けないかというお誘いがきました。当時、まだシルク・ドゥ・ソレイユの存在がメジャーではなく、ホームページを見て「何だか怪しい集団だなぁ」と思っていました(笑)が、国際なわとび連盟の役員からの声がけだったので、とりあえず映像を送ろう、ということになりパフォーマンスビデオを送りました。そしたら、嬉しいことにNORIさんが合格!私は選ばれなくて、ちょっとだけ落ち込みましたが、SADAとNORIがそれぞれの場所で、さらになわとびを拡げる良い機会と考え『NAWA-NAWA』としては活動休止となり、またチームメイトを探すことになりました。

好き×好きで生まれたなわとびパフォーマンスチーム

−−NORIさんを見つけるのも大変だったのに、またチームメイトを探すとなると大変だったのではないですか?

SADA そう思っていた時に、日本体育大学で『乱縄』(ダブルダッチのサークル)を立ち上げたメンバーが大学を卒業して、パフォーマンスを続けたいという人が、ちょうど何人かいたんですよ。
この頃、パフォーマンス依頼も増えてきていたので、彼らと一緒に、ロープパフォーマンスチームを組むのはどうかという打診がありました。
そこで結成されたのが『好縄(ハオシェン)』※4 というチームです。
ヨーロッパキャンプで体験した” 多人数でなわとび ”ができる、念願叶ったチームです。

※4 SADAが監修した『ダブルダッチプレイブック』の巻末プロフィールより抜粋(2002年)

その後、今までは自己満足でやっていたパフォーマンスに監修が入るようになり、メンバーの入れ替わりを経て、自分が好きな戦隊シリーズとなわとびパフォーマンスチームをかけあわせた『縄★レンジャー』※5 が誕生しました。

※5 『縄★レンジャー』(2008年)

単縄、大縄、連鎖跳び、ダブルダッチなど、ヨーロッパキャンプで学んだなわとびの集大成ができるチームであり、なわとびパフォーマーのターニングポイントになったチームです。
私は初代レッドとして2009年まで全国の小学校などを跳び回ってました。
メンバーチェンジしながら『縄★レンジャー』は現在も活躍中です。

人に楽しんでもらい、喜んでもらうこと

−−人前でパフォーマンスすることに躊躇はなかったのですか?

SADA 思い返すと、小さい頃から親戚一同で集まる機会が多くあって、その時に大人も子供も余興パフォーマンスをしていましたね。大人たちは「義太夫節や歌舞伎の名シーンやセリフ」を演じたり、カラオケなどを披露して、子供たちは「歌」や「リコーダー」等の発表という感じです。

親戚の前で演技披露中

当時のことはほとんど覚えていませんが、人前で何かをして、楽しんでもらったり、喜んでもらったりして、人の笑顔を見られる嬉しさは、この頃からたくさん味わっていたんだと思います。

幼少時は戦隊ヒーローやウルトラマン、仮面ライダーに憧れ、中学生頃にジャッキー・チェンの映画に夢中になり、高校でブルース・リーを崇拝していました。高校サッカー部の先輩から「ヌンチャク(プラスチック製)」を受け継いで練習したこともありました。大学時代には、アルコールが得意ではなかったので、飲み会ではお酒を飲んだふりをして「酔拳のパフォーマンス」をしていました(笑)
思い返すと、大学時代は、盛り上げ役・宴会部長のようなことばっかりしてましたね。それら全ての経験がパフォーマンス能力を磨いてくれたんだと思います。

酔拳のパフォーマンス

自分を優先して初心に戻る

−−現在はチームではなく個人でのパフォーマンスや指導などが中心になっていますが、どのような経緯があって今のスタイルになったのですか?

SADA 縄★レンジャーとしてパフォーマンス活動をしていた一方で、なわとび競技を主催・運営する日本ロープスキッピング連盟を創設し、会長も務めていました。少ない運営スタッフの中、競技人口が増えるにつれ事務仕事や審判業務が激増し、パフォーマンスや指導の時間を削るようになってきました。なわとびに関することには全て興味があったので、全力で取り組んでいたのですが、「求められることに応えたい理想と現実のギャップ」が拡がっていきました。次第に心の余裕がなくなり、自分自身を大切にできず、家族との交流も疎かになり、仲間にも当たるようになり、心身共に病んでいきました(涙)
なわとびパフォーマンスや指導の現場の仕事は楽しかったけど、自分が満たされたり、解放することができていなかったので、まずは自分のことを優先しようと、初心に戻るために一旦チームや組織から離れることにしました。​​

−−チームや組織から離れて何をしていましたか?その時期はなわとびはしていましたか?

SADA もちろんなわとびはしていましたが、長くなわとびを続けるために、将来を見据えて資格を取ったり、新しい習い事(義太夫節など)をしたり、なわとび以外の分野を拡げていました。

日本素義会に出演し義太夫節を語る

次回予告

1人ではじまったパフォーマーとしての活動が、2人になり、チームになり、1人に戻るまでのお話を聞かせていただきました。
次回は組織を離れて充電が完了したSADAさんが、ギネス世界記録にチャレンジする話や今後のなわとびについて紐解いていきます。お楽しみに!

2024年6月
Interviewer:Masao Sakita
Text/Structure::Ruo


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