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私は皆に梨を剥いてあげられない

「人が握ったおにぎりを食べられるかどうか」という質問はよくあるが、私は割と食べられる方である。

誰かが自分の為におにぎりを作ってくれたら嬉しいし、その気持ちを無下には出来ないなと思うから。ご飯を作ってもらったら目一杯喜ぶし、感謝の意をできるかぎり伝えたい。
とはいえ、どんなに喜んでいても食えるか食えないかの判断ののちに前述のような思考に至って食べているわけで、少なからずそのおにぎりを品定めしている自分がいたということになる。無邪気に謝意を伝えられないのが、自分のタチが悪いところだと思う。
そういう思考回路はあるけれども、ともかくおにぎりを握ってくれたら私は喜んで食べる。食べられる。

でも私は他人におにぎりを握ってあげない。
絶対に握らない。
料理が下手な訳でもないし、面倒くさい訳でもない。なんなら料理は好きな方だし、めちゃくちゃでっかい味玉おにぎりやでっかいオムライスを嬉々として作る。おいしいうれしい

ただどうしても他人には食べさせたくない。
おにぎりも手料理も。
他人のために作りたくないのではなく、他人に食べさせたくない。他人におにぎりを握る機会なんてほぼないけども、代替的なイベントがあった。

会社へお裾分けに持っていった梨を剥くこと。

ありがたいことに実家からは仕送りとして、どの季節も果物や野菜が届いてくるが、「梨美味しいから会社用にも送るね」というのは拒否した。
私が梨の皮を剥かなきゃいけないから!一人一個ずつあるんならいいけども、そう言う訳じゃないんだったら無理!
ということで、梨は同僚に食わせませんでした。残念。可哀想。美味しかったです。

確かに料理に比べたら果物のハードルは低い。おにぎりとは違って果物は洗えるし。皮を剥けばいいだけ。というのは重々分かっているけれども、イベント中に食わせたくねえ!という葛藤が起こるのは明白で悶々としたくなかったので避けてしまった。

自分で書いてて料理も食わせねえし梨も食わせねえのかよ!なんなんこいつ…ってなるね。
別に独り占めしたいわけでもないし、できるならば美味しいものは他人に共有してあげたいとも思う。梨は当然美味しかったし。
じゃあお裾分けしたれよ!と自分でも思うが

どうしても自分が調理したり触ったりして手を加えたものを他人に食べさせることに葛藤が生まれてしまうのだ。
単純に汚いよね、と思ってしまう。
色々な記憶が積み重なった結果で、もっとグルグル考えてはいるけれども簡単に言ってしまえばそういうことになる。

包丁の使い方が変だとか危なっかしくて見てられないとかで調理に対する自信が失われていること。多汗症。人間関係の構築に失敗し、自尊心や自己肯定感がめちゃめちゃになり自己嫌悪と人間不信。
別に酷いいじめを受けた訳でもバイ菌扱いされた訳でもない。なんとなく自分が他人に受け入れられると思えないだけである。

社会人になってからは他人とのコミュニケーションが円滑にできるようになり、なんなら楽しいと思えるくらいになってはいる。人間だって好きだ。どの人も面白くて、いろんな話が聞けるのは楽しいし、私の話も聞いてくれるから嬉しい。
しかしどうも多感だった学生の頃の思考は、大人のフリをした自分の付け焼き刃コミュ力をぶち破ってくるらしい。どうしようもない記憶達が悪い取り合わせを起こして梨の皮すら剥けなくしてしまった。

他人の握ったおにぎりが食べられないという人は割といるし、自分の握ったおにぎりを他人に食べさせたくないという人がいてもおかしくないとは思う。

ちょっと無理なんだよね、なんとなく受け付けないんだよね〜という食べられない側の話は良く耳にするが食べさせたくない側はあまり聞かなかったのと、自分の中でもなんとなく嫌だったことが梨イベントを通して人間不信によるものだと理解したため、なんだかな〜と記録した。

いつか気にせず美味しい梨を提供できるようになったらいいなと思う。努力はしないけど。


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