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諦念

結論からまず述べようと思う。

結論:愛とはそれ即ち諦めである

いきなり何を、と思われるかもしれないが、ここ数週間の懊悩ののち、わたしはようやく一つの解に辿りついたかもしれない。

順を追って話していこう。

近頃、彼のわたしに対する愛情表現が薄まり、依存度が下がってきていることに不満と不安を抱えていた。
会う頻度が極端に下がった。
メッセージのラリーが途絶えがちになった。
愛してる、好きだ、会いたいと言う言葉もかけてもらえなくなった。

正確な理由はわからない。でも多分、愛想を尽かされたのだと思う。

ーどんな時にも好きだよ、変わらない。
ーここをベースとしたい。

そう言ってくれてたはずなのに、本当の内面を見せたら遠ざかっていくんだね。依存度が上がって、随分とだらしのない姿を見せてしまったことを後悔している。八つ当たり、甘え、卑屈で攻撃的な態度、わたしのマイナスの部分をこれでもかと言うほど。
彼の言葉を信じて、包み隠さず、多分人生ではじめて、本当の自分をさらけ出せていた。これは、ごく近しい人間、例えば家族とかにも見せない、弱くて繊細で小さな自分だった。

臆病で些細なことも気になってしまうわたしは、多分そのある程度感度の高いアンテナで早々に彼の心境の変化を察知できていた。そして、離れていこうとする彼に必死の形相で追い縋った。
いわゆる、試し行動ってやつだ。相手に対してあえて酷いことを言ったり、したりして反応を伺う。相手の出方を見て、愛情の質量をはかる。

ーもうこの関係はやめようか。この手は放すね。
ー前はあんなだったけど、今は違う。もう好きじゃないんだね。

メッセージをブロックしたり、レスポンスしなかったり。
何度か、試されるのは嫌だと言われた。でも些細な事で不安になる度に、わたしは彼に対して再三試し行動をしてしまったし、その内容もエスカレートしていたと思う。

言い訳をさせて欲しい。
自分が止められなかった。どんどん下がる自己肯定感、唯一と言っていいほど自分の存在価値を認められた気がしたのが、彼の存在だった。彼に愛され、その愛情をストレートに表現され、自身を求められる事でわたしは辛うじて自分の存在意義を見出せていたのだ。彼を失う事は、自分の価値を見失う事に等しかった。

試し行動を繰り返す事で、彼の心を引き留め、自分から離れていかないようにコントロールしようと試みた。本当の意味でのコントロールなんて、どうやっても無理なのに。変えられるのは自分自身のみ。本来コントロールすべきは、彼の行動や気持ちではなく、自分の心の持ちようだった。
そのことに気がついたのは、彼が明らかにわたしから離れていった後。本当につい最近のこと。

彼のことが本当に好きだ。これは変わらない。変えようがない。更に明確にしておくべきは、わたしが好きなのは彼の存在、その全てであって、そこに「わたしのことが好きであること」という条件はついていない。
どこにいても何をしても、わたしのことをどう思っていても、いつも向上心がありポジティブで、頭の回転が早くきめ細やかな彼が好きだ。
わたしが好きな人にしてあげられること、それは幸せを願い、祈ること。彼のこれから歩もうとする先を応援すること。

愛しているの、だから彼の気持ちを取り戻したい。彼を変えたい。

これは無理な話。変えることは諦めて、相手のありのままを受け入れるのみ。

ようやくここまで考えが整理できた。
繋がりが薄くなったからとて、無理して連絡を断つこともない。かと言って、向こうから何のアクションが無くとも、クヨクヨすることもしない。卑屈になったり、拗ねたり苛立ったりする必要なんてないのだから。だって自分の好きな人が、ありのまま存在してくれている。それだけでいい。

愛とは即ち諦め。
相手のことをそのまま受け入れて、自分の心に集中する。目の前の現実を受け入れて、相手の幸せをただひたすら願う。この心の持ちようでいることが、当面のわたしのテーマ。

神よ、わたしたちに
変えられないものを受け入れる心の平穏を与えて下さい。
変えることのできるものを変える勇気を与えて下さい。
そして、変えることのできるものとできないものを見分ける賢さを与えて下さい。

ニーバーの祈り


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