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3.ミニコミ誌を出す。

そうだ。ミニコミ誌を出そう!
頭の中は構想と妄想がいっぱいだった。その想いを友達グループに宣言する。大体言い出しっぺが一人でもやる気概がないと100パーセント完成できないと言ってもいいと思う。幸い、同じ社会人で賛同してくれた友人がいた。Mだ。Mは大手メーカーに昼間勤め、大学では確か電気を学び、クラブは演劇部だったと思う。その上彼は、通信制の大学にも通っていて経営を学んでいた。私の部室の隣が演劇部だったのでいつのまにか意気投合していた。
私が編集を受け持ち、Mが営業面を受け持つことになった。

でも、出版のことは全く解らなかった。今ならインターネットがあるので必要な情報は数時間で入手できるがその当時はそんなものは存在していなかったので梅田の旭屋書店に行き、出版に関する本を五、六冊購入し、出版の勉強を始めた。

ポイントが文字のサイズのことを表すのを初めて知る。割り付け(レイアウト)の方法。「歯数」やポイントの計算方法など技術的なことはほぼ理解できた。
本の作り方はチョーアナログ。
原稿を書く、具体的には原稿用紙に文字を手書きで書いて記事の番号をつける。
割り付けをする、見開きのページよりも一回り大きめのレイアウト用紙に写真の位置、文字の位置を決めていく。文字のフォントとポイント数、一行あたり何文字にするかをして調整していく。パソコンがあれば一瞬で片付く作業も、手書きの場合かなり時間がかかる。レイアウト用紙に書いては消し、書いては消しの繰り返し。でも始めてのするこのクリエィティブな作業は地味だけど楽しかった。

肝心の企画、記事は・・・。
書きたいことがいっぱいだった。
そもそも、「ミニコミ誌を出したい」と思った意図は記事を通じてよりこの大学に通う学生たちが少しでも良い大学生活が送れるようになれば・・・という健全?な本音があったのだが・・・世の中はそう甘くなかった。

気持ちだけが先走って、実質的な内容が全く伴っていなかった。自分の定めたデッドラインはどんどん近づいてくる。

収入源、広告。
メンバーは5人。みんな貧乏。お金を出し合って本を作ろう。なんて意図はなかった、初回から広告費で印刷費をペイする。取材や必要経費は個人個人が領収書を保存しておいて利益が出ればお支払いをするという考えでまとまった。当時、私は図面作成のアルバイトをしてそのあと大学に通っていた。アルバイトと大学の授業の合間は全てミニコミ誌の広告営業の時間に費やした。飛び込み営業を始めて体験する。大学の近く駅には大阪市内でも有名な大きな商店街がありその商店街のお店を一軒一軒全て回った。
苦労の甲斐あって初回は、広告費が印刷費を上回った。

1984年4月。
記念すべき第一号が発行できた。
刷り上がったばかりの真っ新な雑誌を手に取った。「軽い!」苦労の塊の割にはそれはあまりにも軽かった。
づづく。

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