「思考可能なものはすでに存在している」

親愛なる永井先生へ

先日お話した件について、体系化を試みたのですが、どうにも広大な領域で、現在の僕の力では手に負えませんでした。
体系化するためにはさらにもう一段階上の次元に至らなければならないので、まだ修行が必要なのでしょう。
しかし、それでもやはりこれは価値のあることだという確信があります。
そこで、まず2月16日にmixiというサイトに掲載した記事の一部を(一部書き換えて)載せます。


2月9日に発見したことより

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<命題「思考可能なものはすでに存在している」の証明>

0.ある対象が思考可能であるとは、その対象に思考を進める(思考が至る)ことが可能だということに他ならない。
1.思考の<進め方>には演繹と帰納の2つがあり、かつそれのみである。
2.演繹可能なもの、つまり演繹によって得られるものは、すでに存在していると言うことができる。
3.帰納とは十分条件の発見(単に「発見」と呼ぶ。一般にものを見つけるような場合でもこの定義は当てはまる)である。
4.発見するためには当のもの(発見の対象)がすでに存在していなければならない。
5.したがって、帰納によって得られるものもすでに存在している。
6.2,5より演繹と帰納によって得られるものはすでに存在している。
7.1,6より、思考可能なものはすでに存在している。

<概念の統合>
さらに
4.で用いた論理は通常見られない論理(推論規則)である。
具体性のある概念の性質をうまく使っている。
つまり、「十分条件」や「帰納」という概念からは導き出されないものを、「発見」という(よく知っている)概念と結び付けることで導き出している。
これをかりに「概念の統合」と呼ぼう。
これで我々人類における思考の抽象化が食い止められる!(霊的世界との接触が保たれる!)
ずっと暖め続けてきた卵がようやく孵化した!
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我々は言葉を使って考えている。
言葉を直接使わずに考えることも可能だが、現実問題として、言葉は思考に介入してくる。
ところで、我々が言葉を用いるとき、同じ言葉を文脈によって別の意味で使っていることに気づいているだろうか?
たとえば「抽象的である」は、文脈によって、「具体性に乏しく分かりにくい」という意味で使われることもあれば、「より条件づけられておらず、したがって自由度が高い」という意味で使われることもある。
単純な話、たいていの言葉は、よい意味にも悪い意味にも受け取ることができる。
これは要するに矛盾ということではないのか?
全く同じ言葉に、相反する2つの意味が同時に存在している。
同じ場所に相反する2つのものが同時に存在することが矛盾であるから、これは矛盾であると言わざるを得ない。
もちろん、文脈によって言葉の意味が違うのは自然なことである。
だが、この「自然」は、「合理的」であるということではない。
非合理的な自然というのは、実に矛盾に満ちている。
それが問題だといっているのではない。
文脈によって意味を変えてもよい。
だが、文脈に左右されない言葉をつくることも可能だといいたい。
そしてそのとき見えてくる新たな地平があるといいたい。
文脈に左右されない言葉の向こう側にあるもの。
それが内界である。

そして私は予言する。
人々が概念(言葉)の統合を自分で着実に行っていった先にあるものは、全人類に共有されるものになるだろう。
人々は、自分自身の力で考えれば考えるほど(つまり個性を発揮すればするほど)、他の人々と共鳴することになるだろう。
最後に、「私」はひとつになる。
人々すべてが「私」になる。

逆に、もしこれに逆行するように人類が進んでいったとしたら、どうなるだろう。
自分だけの言葉、自分だけの概念を「捏造」し、すべての「共有」が「了解」にとって変わられてしまったら、どうなるだろう。
人は孤独になるだろう。
いや、もうそこに「孤独」などなくなるだろう。

今、人々は、「話が通じていない」ことに気づいていない。
ますます孤独へと向かっていることに気づいていない。
真の共有を、知らない。
すべての根拠を外部へ求めようとしている。
人々は、言葉を磨こうとせず、もう古くなって行き場を失ってしまった概念という亡霊の森をさまよっている。

空を見上げなさい。
空はみんなのものだ。
森を見るからさまようのだ。 ■

<言葉に埋もれる現代人>
「私」に関する考察などは、ルドルフ・シュタイナーの「ヨハネ福音書講義」に影響を受けています。
僕たちに「本物」を伝えてくださろうとしている永井先生にとっては恐らく当たり前の話だと思います。
言葉は言葉としてあって、真実は真実として在れば、全く問題ないわけです。
(通常の意味での)言葉よりも、音楽の方が真実を端的に表現できるとシュタイナーは言っていました。
僕自身も、確かにそうなのかもしれないと思います。
音楽から感じることほど内的なものは他にないので。
そういう意味で、結局、言葉が多少いい加減になろうが普段から音楽的に生きていられれば(本物を見失わないという意味で)かまわないわけなのですが、大多数の人間はそれができません。
その理由は、「言葉に埋もれている」からです。
彼らは、言葉を支配していません。
むしろ、言葉に支配され、踊らされています。
つまり、実は自分で考えていません。
見かけは考えているように見えますが、なんとなく言葉を発しているだけです。(お気づきだと思います。)

<それを突破する方法としての「概念の統合」>
僕の提唱する「概念の統合」は、それを内側から突破する方法です。
言葉に埋もれている現代人に対し、天から蜘蛛の糸を垂らしても、もう気づきません。
少なくとも、上からの呼び声では、人類全員の耳には届かないでしょう。
内側からの力が必要です。
言葉は概念を表しますが、概念は霊に接続しています。
概念を純化したものが霊です。
ですから、言葉をキレイに整えていけば、自ずと真実を思い出すだろうというわけです。

<現代に跋扈する「切り分け主義」と「相対主義」>
人々を真実、つまり普遍的なことから遠ざけている原因についてはすでにいくつか見出していますが、この件に即して言うならば、主な原因は次の2つです。
ひとつは、「切り分け主義」。
もうひとつは、「相対主義」です。
「切り分け主義」は、「それはそれ、あれはあれ」という関係性の断念の宣言に象徴される細分化の原理です。
細分化自体は必要なことですが、「切り分け主義」は、間違った細分化をします。
全体性を失うような細分化をするのです。
「相対主義」は、「ひとそれぞれだよね」という普遍性の断念の宣言に象徴される真理観念の堕落の原理です。
本来、「正しいものは正しい」はずです。
もちろん、人は間違うので、疑ってみることは大事です。
しかし、正しさを多数決の原理に基づかせてはいけません。
相対主義は真理を多人数の同意に還元してしまいます。
それは正しさの堕落です。

<概念の統合を進めていくことで魂が浄化される>
真実が単なる概念となり、多人数の意見と同一視されている今、単に真実について語っても、受け入れることができる人はあまり多くありません。
そこで、内部からせめるのです。
概念を統合していくことは、そんなに難しくありません。
言葉の意味について自覚的になればよいのです。
知的能力さえあればできます。
概念の統合を進めていくうちに、いつか真実の存在に気づきます。
つまり概念の統合とは浄化のプロセスです。

<戦うことの決意>
現代では、「切り分け主義」や「相対主義」がむしろかっこいいものとして扱われています。
キリストが伝えた「わたしである」に至るどころか、「わたし」をあらん限りの力で条件付けしてがんじがらめにすることによって「コセイ」を確保しようとしているのです。
「わたしである」自我と、この「コセイ」とは、似て非なるものです。
人類はあるべき方向と真逆の方向に進みつつあります。(もちろんよい流れもたくさんあると思うのですが…)
しかし、真逆であるならば、ちょっとしたきっかけで非常に正しい方向へ進むことも考えられると思うのです。
僕はそのきっかけをつくりたいと思っています。

これからもよろしくお願いします。

宮田龍雅

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