イスカリオテのマリアの由来〜シン・エヴァ考察
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:ll』の映画をいち視聴者として楽しんできましたので、
表題の件について個人的に気づいた点を少しまとめてみたいと思います。
以下、ネタバレ注意です。
「イスカリオテのマリア」となったマリ
物語のカギとなる真希波・マリ・イラストリアス(以下、真希波マリ)は、
本作にて「イスカリオテのマリア」と呼ばれますが、イスカリオテからまっ先に連想される人物は、
キリストの弟子だったユダ(第12使徒)通称「イスカリオテのユダ」でしょう。
ユダの伝説からは、彼がキリスト教徒の中の“裏切りの象徴”とされる場合が多い人物です。
しかし、キリスト教関係の研究において「イスカリオテのユダ」は、
いわゆる裏切り者だけでなく、イエス・キリストの一番の理解者だった、とする説もあります。
これは『ユダの福音書』という聖書の外典的な書物のなかで語られており、
それらが存在したことを裏付ける資料が1970年代に発見されています。
参考↓『「ユダの福音書」の持つ意味』ナショナル・ジオグラフィック記事(2011/06/27)より
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4494/
これらが示しているのは、ユダがキリストに対しもっとも忠実な弟子であり、
死に追いやる裏切り行為そのものが、キリストの指示によって行われたとして、
やむを得ずユダはキリストの死を幇助(ほうじょ)した、という衝撃的な内容です。
これらは初期キリスト教によって異端とされた、いわゆる「グノーシス主義」と呼ばれる教義に基づいています。ごく省略的な説明をすれば、「人間の肉体=悪なるもの」、「霊魂=善なるもの」という二元論が根底にあり、肉体から精神を解き放つことが”救い”となる、といった考え方です。
「グノーシス主義」については、『風の谷のナウシカ』などにも影響を与えているといわれており、『エヴァ』シリーズにおいても「人類補完計画」など随所にその思想が受け継がれているとみることができます。
「マリア」とは誰を指すのか
もう一方の「マリア」という表現は、『ユダの福音書』と同様に、
グノーシス主義の貴重な文献となる『マグダラのマリアの福音書』という外典も遺されています。
(1940年代に発見された『ナグ・ハマディ写本』に記されていたものが資料として有名。)
聖書においてはマリアとよばれる人物が何人も登場しており、
やはり「聖母マリア」ことキリストの母がもっとも有名ですが、「マグダラのマリア」というのは
元娼婦とされる別人の女性のことで、かつキリストにとって重要な存在といえるでしょう。
その伝説として、彼女は“キリスト復活”の際にその一部始終を見届けたとされ、
また同時に、彼のよき伴侶としてキリストと結ばれるべき女性であった、といわれています。
この言い伝えは、ベストセラー小説となった『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著/2003)でも物語の主軸として取り上げられており、非常に興味深い研究題材となっています。
(ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチという呼び名は「ヴィンチ村のレオナルドさん」の意味で、「イスカリオテのユダ」も”イスカリオテ出身のユダさん”程度のニュアンスとなります。)
マリ="Eva"を司る存在
また言うまでもなく、『エヴァ』とは“Evangelium”(ラテン語)
すなわち“福音”であり、本来その原義は「良い知らせ」を表す言葉です。
キリストが死から復活したという“奇跡”の知らせそれ自体が、
人々にとってもっとも根本的かつ最大の福音であったと解釈されます。
そして、ユダおよびマリアの二種の福音書をもち合わせた「イスカリオテのマリア」としての
真希波マリの存在そのものが、「福音をもたらす者」として定義されていること。
また、注目すべきは新約聖書における福音書の“正典”となるのは、マタイ、ヨハネ、ルカ、マルコによる4つとされており、あくまでユダとマリアの福音書は“外典”とされている点です。
ここに、真希波マリはゼーレの予期する福音のシナリオから外れた、別の福音としての現出を意味することになります。
この“外部性”という位置づけは、積極的な干渉を忌避する第三者として物語に介在することができ、
クライマックスにてシンジが死の丘へ旅立つに際しては、その送迎役としてもっとも近くにいるという特殊な立ち場を得ることを可能にしています。
そこでは、シンジの選択した結末に対して、あくまでも見届けるのみの存在として描かれ、
その顛末を人々に伝えていく者すなわち「物語の語り手」を担う、と理解されます。
これにより、ゼーレの予定してきた結末とは違った、"新たなエヴァ"としての物語の舵きりをもたらす重要な装置、という役割が真希波マリに与えられたということが言えます。
“マリ”という名づけの理由とは…
カトリック等においての聖人である「マグダラのマリア」は、使徒に次ぐ存在であると位置づけられており、
日本語では「亜使徒(あしと)」と表現されます。
ここから、けっしてマリは敵対してきた“使徒”と同義ではなく、あくまで人間側にいる女性であり、
本作の一連のできごとに対し本質的に“人類の味方”であることを表していると捉えることができます。
また、「亜使徒」のほかにも「聖携香女」という称号も与えられており、
すなわち、遺体に塗りつけるお香の油壺を持つ女性、を意味します。
この姿からは、マリが度々シンジの匂いをかごうとする仕草を想起させ、
彼女の一連のセクシーな振る舞いは、元娼婦とされた「マグダラのマリア」の伝説とも結びついてくるともいえます。
最後に、この「亜使徒」で大いにこじつけとなるアナグラム的な言葉遊びになりますが、
マリ+亜使徒 → マリア/使徒 = 「マグダラのマリア」であり、かつ使徒になれなかった者(すなわちイスカリオテのユダ)でもある
という『エヴァ』シリーズお決まりの、名前由来考察も付け加えておきます。
少々飛躍しましたが以上のように考えると、「イスカリオテのマリア」こと真希波マリが、単なるゼーレの裏切り者というだけでなく、
1 一番の理解者として主人公の“復活”を手助けしてくれ、世界から消え去ってしまう宿命から救い出す者。
2 『エヴァ』という物語の一部始終を見届けるという、事象の観測者。
という、2つの役割をもった存在である、と考えられるかもしれません。
※画像引用元『シン・エヴァンゲリオン劇場版』公式ウェブサイト内より
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?