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言えないコトバ

noteをしているひとのことをnoteのひとたちは
「noter」と表現されている。
あるいは「住人」だったりもする。
noteの街の、ということだろう。


ちなみにわたしは心の中で「ノーみん」と呼んでいた。雑なフォローをしておくと、「月刊ムー」を読んでるひとのことを「ムーみん」と呼ぶそうな。かわいい。わたしはその音に引っ張られたのだろう。


ムー民。
ノー民。



「〽︎ねぇノー民、こっちむいて♪」

「ノー民」がかわいいかといわれると、
音は決してかわいくない。
何とは言わないが、くわとか持ってそう。
「ムー民」がかわいいのは「ムーミン」が掛かっているからだ。わかっていたけれど、こうしてわざわざ文章にしてみると本当によくわかる。
しかし、正式だったとしても
「noterさん」を自分が言うのは、何かちょっとむず痒い。


✳︎


数年前、ひとりで近所を散歩していたある日
散歩中の犬がガッガッとすごい勢いでわたしに向かってきた。リードがピーンと伸び切っている。
飼い主さんが「す、すいません💦」となって立ち止まる。犬はわたしに突進してきてぶんぶんと尻尾を振りまわしている。初対面である。


わたしは、よくあるセリフのひとつ、
「かわいいワンちゃんですね」の
「ワンちゃん」がどうしても氣恥ずかしくて言えない。「犬」と言いたい。
しかし「かわいい犬ですね」はなんかぶっきらぼうな感じがする。「うちの子はペットではなく家族ザマス!」とお思いの方もおられるだろう。
「愛想が無い」でおなじみのこちらとしても、うかつな第一声によって見知らぬ相手の怒りを買うことはなんとしても避けたい。
かといって「犬さん」も何か、ちがう。
「お犬さま」などと言ったら飼い主から噛まれそうだ。以前とある犬のイベントでマルシェに出店した知人が「犬飼ってるひとはだいたい金持ち」と言っていた。「金持ち喧嘩せず」のはずの金持ちから怒られるなんて想像するだけで悲しい。
この犬の首輪いくらするんやろ。
わたしの一ヶ月の食費より高いんじゃないか。
瞬く間に脳内には無駄な思考が広がっていき、
その間に口のほうは
「かわいいワン……」まで言ってしまっている。
おいおいおいおい、そこからどうするんや!


ワンワン?(速攻でSNSに晒されそう)
ワンころ?(正気か!初対面やぞ!?)
ワンころもち?(親戚の犬ちゃうねんから!)


たった一瞬をかけ巡る悲惨な思考。
「ワンちゃん」と言いたくなくて泣き叫ぶわたしの内側に住む思春期女子。
そして強引な軌道修正の結果、
「かわいいワンさんですね……!!」
と、謎の中国人を召喚してしまった。


(ワンさん…だと…ッ!!?🐶)


「少年アシベ」の王々軒わんわんけんの店長・ワンさんが脳内を駆けめぐる。ものすごい犬顔のキャラクターである。犬ではない。ひとだ。
実写化するなら間違いなく本多力さんだろう。
大河ドラマ「光る君へ」で百舌彦を演じている俳優さんである。
目の前にいるかわいい犬を見ながら噴き出しそうになる。飼い主さんにも失礼極まりない。
どうして笑ってはいけない場面でわたしの脳内はわたしを笑かしにくるんだろう。つらい。
そうこうしている間にも、

「この子滅多に人に懐かないんですけどね〜💦」

と 言われもはやなんと返したらいいかわからず、脳が思考をやめてしまった。
自他共に認めるコミュ障なわたしの脳内にある「会話定型文」の帳面にそのパターンの返しは載っていない。電源の落ちた古いパソコンのように左脳の再起動にとんでもない時間がかかっている。まずい。まずいぞ。脳内の引き出しという引き出しは無惨に開け放たれ、帳面はすべて床に落ちている。完敗だ。
「イレギュラー」「想定外」にたちまち弱いのである。その場に応じたノリで会話をまわす人たちの輪には、一生入れそうもない。

もうすでに「会話の変な間」の領域に差し掛かっている。わずかに残る自我が「『そうなんですねー(にっこり)』で終わらせて速やかにそこから立ち去れ」とわたしに指示を出す。が、左脳が思考停止した途端、右脳が喜々とし始め、
「あら〜前世でお会いしましたっけ〜?」
と、犬に話しかけてしまった。
何を言ってるんだわたし。


飼い主さんとわたしのあいだに救いようのない「間」が生まれた。ラジオなら放送事故である。
これにはさすがの犬も何かを察したのか、何ごともなかったかのようにスッとわたしから離れていった。飼い主さんもほっとしたことだろう。
わたしも安堵した。
無言で「ぺこり」とお辞儀をし合った。
散歩コースを変えられたのか、その犬に会うことは二度となかった。



益田ミリさんの本に
「自転車のことをチャリと呼べない」と書いてあった。そういうキャラじゃないから似合わないのだとか。

自分から噴き出しているまじめオーラ

「言えないコトバ」/益田ミリ


という表現に共感する。


わたしもまじめに見られがちだ。
学生時代は「まじめだよねー」と言われることがこわかった。揶揄することばだと感じたし、その言葉をもって仲間はずれにされることを恐れていたから。


でもいまは「まじめにみられる」ことはそんなにわるいことばかりではないかもな、と思っている。


益田ミリさんは「昔ヤンキーだった」という嘘を言ってみても、驚かれることもなく笑い飛ばされるそう。
「ヤンキーからほど遠い雰囲氣なのだろう」
と書かれていた。

だからこそ自身が若者だった時分にも、同世代のつかう言葉を同じようには使えなかったのだろう。

「チャリ」顔じゃなく、
「自転車」顔なのだ。

わかる。わかる。ものすごく。

だから学生時代に、クラスメイトが自転車のことを「チャリ」などとヤンキーっぽく呼んでいたときも、どうしても気後れして真似ができなかったのである。

「言えないコトバ」/益田ミリ

まして、わたしの故郷は大阪。大阪弁では「チャリ」のアクセントは「リ」に来るので、(中略)迫力が出がちだ。それこそ、ますますわたしのイメージから遠のいてしまう。

「言えないコトバ」/益田ミリ


だが大人になると「チャリ」と言っている人はいなくて、みんな「自転車」に戻ってきているそうな。
「チャリ」から「自転車」へ再変換するとき彼らは何を思っただろう、と綴られている。



わたしは通りすがりの犬を「ワンちゃん」と呼ぶことのないまま生涯を終えるかもしれないが、それでもいい。
謎の中国人を脳内に何度でも呼び出してやろう。そのうち「ワンさん」耐性ができて、噴き出しそうになるのを堪えないで済むことだろう。


「ワンチャン」ときみが言うたび現れる犬に首輪をつけておきたい

西淳子



「ワンちゃん」も言えなければ、
「ワンチャン」も言えない。恥ずかしい。
「エモい」も言えない。
わたしのキャラとちがうのだろう。
「とても」を意味する「ばり」を多用する仲間の輪にいても、やはり「ばり」は言えなかった。
代わりに同義の「えらい」をつかうことがあるが、嫌味に聞こえないよう氣をつけたいところだ。「えらい暑いねぇ」は挨拶だが、
「えらい格好して」だと完全に嫌味である。



いつだったか、ショッピングモールで飲食店の並びが書いてる看板を見ていたら、後ろに立った若者たちが「ここでヨルゴ食おー」と言っていて
「ヒンッ……!!」となった。
ヨヨ、ヨルゴ!?
夜ごはん!!!!?てこと!?
初めて聞くワードに震えながら彼らの去っていく方向を見ると、置いてけぼりにされた「ハン」が置いていかれまいと走っていく姿が見えた。
彼らが孫悟飯やあんかけ炒飯のことをなんと呼ぶのか興味が湧いたが、そのことは秒で忘れた。


「きちぃ〜」「ねみぃ〜」「病む〜」
と 若者たちはいつの時代も氣怠そうだ。
彼らも年齢を重ねたあかつきには、
「ヨルゴ」から「夜ご飯」に再変換させるときがくるのかもしれない。


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