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「信じている」と意識するより「裏切られたくない」という思いを手放した方がラクチンだと思っています

以前、「なんだよ!信じてたのに!」
と感じた出来事がありました。
それなりに落ち込んだあとで、

「そうか、あたし、信じてたのか…」と思い、信じてたということに気がつきました。

信じてるって無意識なんだと思います。

心から信じてる時(つまりも疑っていない時)というのは、そのことについてなーんにも考えてないんじゃないかと思うのです。
信じる信じない以前の問題。
もう、意識にない😅
エネルギーも1μも使ってない。
信じてるとは「前提」なのかもしれませんね。

「信じている」と言葉として表現する時というのは、期待をかけている時だと思うんです。
その状況に対する意識があって、好ましい結果に期待をして、でも実は心から信じてるわけではないというか、ひょっとしたら無意識に疑ってるかもしれません。そこには「不安」が存在し、ストレスがかかります。
他人の行いに期待と不安を持つことが悪いことだというつもりはないけど、
他人の行いに対してはどう足掻いてもコントロールが及びません。
自分以外のものを意識して信じた場合、リスクも労力もかかるわりには、リターンの補償はない。といえますよね。
だから、疑ってる時ってとってもくたびれる。

「信じている」と言語化する時の気持ちは、
「裏切られたくない」んだと思います。
だったら「信じてる」というより、ストレートに「裏切らないで」のほうが伝わるような気がします。

さて。
あたしがどうしてこのような価値観を持ったのかというと、意図的に書き換える必要があったからです。

昔、まだ若夫婦だった頃、夫がオイタをしてあたしが深く傷ついたとき、どうにか立ち直りたくて、頑張ったことがありました。
あの時、途方に暮れながら考えました。
もう
2度とこんな思いをしたくない。
別れも考えました。
死ぬことも考えました。
でも、結局、別れないことに決めました。
あたしも心を入れ替えて死ぬ気で頑張ってみようと思い今(30年)に至ります。

やり直すとは決めたものの、あたしは彼を信じられるのだろうか、それともずっと疑い続けるのだろうか、どうしたら信じられるのだろうと真剣に深刻に考えました。
でも、どんな手を打っても

「心から安心しきって信じる」のは不可能だ
という結論に辿り着きました。
身もふたもないかもしれないけど。

でも、そのおかげで、あたしは、
「信じる」という自分の価値観、定義そのものを変えることができました。

あたしが「信じるを意識する」こととは、「裏切られたくないと」と他人の行動を期待することではなく、健全に開き直ることです。
「信じると決めた自分」を信じて、相手の行動をあたしの土俵に上げない。
自分の心を守るために。

他人に対する期待を手放せば、相手の行動が原因で受けるダメージを可能な限り排除できると思っています。

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