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「五戒」の「感謝して」について(2)

レイキの「五戒」の本文にある5つの戒めの3つ目、「感謝して」の続きです。
「感謝」は、命令して無理やりやらせるものでもないし、誰かを操るためにするものでもありません。
ただ「感謝」という状態でいることによって、その表現として「ありがとう」と言ったりする。そういうものなのです。

感謝という状態になるために

感謝の気持ちが湧いてこないのに、形だけで「ありがとう」と言っても意味がないと言いました。
もちろん道徳的に、あるいはマナーとして、相手を喜ばせるために「ありがとう」と言うことが間違っている、というわけではありません。

厳密に言えば、自分に対して正直でないという点からすると、表面を取り繕って感謝するのは、自分にとっては良いことではありませんけどね。
それは話がそれるので、ここでは深く突っ込みません。

そこで、では心から感謝するにはどうしたらいいのでしょう?
いくら感謝しようと思っても、不平不満ばかりが湧いてくるとしたら、どうすれば良いのでしょうか?

逆説的ですが、だからこそ「ありがとう」を言うことだと、小林正観さんは言っています。
「ありがとうの奇跡」という本には、こう書かれていました。

「「思いを持たず」、よき仲間からの「頼まれごと」を淡々とやって、どんな問題が起こっても、すべてに「ありがとう」と感謝する(受け入れる)こと。
「そ・わ・かの法則(掃除・笑い・感謝)」を生活の中で実践することであり、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言わないこと。

 すると、神さまが味方をしてくれて、すべての問題も出来事も、幸せに感じて、「よき仲間に囲まれる」ことになり、「喜ばれる存在」になる。」(p.31)

正観さんは、「思い」よりも「言葉」が強力だと言います。
レストランに行って、いくら強く「カレー」と念じても、「ラーメン」と言えばラーメンが出てくるのだと。
だから、「ありがとう」を呪文のように何万回も唱えることを勧めています。

実際、それを実行して人生が変わったという人もいます。
たとえば、たまちゃん先生こと小玉宏さんもそうです。「いつも心に太陽を」という冊子には、こうあります。

「でね、最初はね、
「ありがとうございます」って、ただ言えばいいって言ったんです、その人。
「ただ言えばいいんやったら、言ってみようか」って思ってね。
「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、・・・」って、
ずーっと呪文のように唱えよったんですよ。ほしたら、二万回くらいで来ましたわ、私の場合は。
二万回くらいでね、正体不明の涙がね、止まらなくなったんですよね。もう、号泣したんです、二万回くらいで。何かね、良く分からない涙が出た。ほいで、なんかすっきりしたんですよ。」(p.50)

納税額日本一になったこともある斎藤一人さんも、言霊の力を使って自分の意識を変えるということを言われています。
そのため、「天国言葉」を使って「地獄言葉」を使わないようにしようと言われています。
「世界一ものスゴい成功法則」から、それらを引用しましょう。

「<天国言葉>
愛してます ツイてる うれしい 楽しい 感謝してます しあわせ ありがとう ゆるします」(p.176)
「<地獄言葉>
おそれている ついてない 不平不満 愚痴 泣き言 悪口 文句・心配事 ゆるせない」(p.177)

このように、まず形から入るという方法を勧めているのです。
ここで注意するのは、これを他人に押し付けても意味はないということです。
他人ではなく、自分が自分の意志で行うことです。

感謝のタネを探す

真の感謝をするには、本当に感謝したくなる何かがあればよいとも言えます。
そのための方法を紹介しましょう。

「いやいや、そんな感謝したいことがないから感謝できないんじゃないですか!」
そう言いたくなるかもしれませんが、それは間違っています。

「感謝したいこと」は、いつでも目の前にあります。それが事実です。
ただ、そのことに気づいていないだけです。

自分がそこに焦点を合わせれば、それに気づくことができます。

これは、見方を変えるということです。
見方が変われば、同じものでも違うように見えてくるのです。
ひすいこたろうさんは、「ものの見方検定」の中で、竹田和平さんの言葉を紹介し、その見方の素晴らしさを伝えてくれています。

「タンポポのように背の低い花は上を向いて咲いていてくれるがね。人間と背丈が同じひまわりはこっちを向いて咲いてくれるがね。高いところに咲いとる桜は下を向いて咲いてくれるがね。花はいつも人間に向かって咲いとるでよ。これ以上のありがとうは他にあるがなぁ。天は自分を愛してくれている。まずはこれに気づくことだよね」(p.10)

ただ歩いているだけで、花を見ては「ありがたい」と思う。それが和平さんの生き方でした。

「ありがたい」とは「有り難い」ということ。
つまり、あることが難しいのですから、それは奇跡です。
そして、この「有り難い」の反対は「当たり前」です。

たとえば、病気になって話すことができなくなると、そのことに不満を言ったりします。
それは、「話せること」が「当たり前」だと思っているからです。
しかし、それは本当でしょうか?
単に、そういう見方をしているだけではないでしょうか?

もし、「話せること」が奇跡だと思えば、それは「有り難い」ことになります。
見方が変わった途端、これまで普通のように話せていたことが、奇跡の連続だったと気付きます。
その気付きによって、真の感謝が湧き起こるのです。

すべてを受け入れる

真の感謝をするには、すべてを受け入れる覚悟をすることです。
何が起ころうとも、それを「よし」と決めることです。

これが前に「神との友情」から紹介した「期待をせずに生きる」という生き方です。
そのためにはまず、何が起ころうともそれは「完璧である」ということを知ることが重要です。
すべてが完璧だとわかっているから、たとえそれが不都合に感じたとしても、受け入れることが可能になるのです。

先ほど、「有り難い」は奇跡だと言いました。
この「有り難い」を漢文で書くと「難有」となります。間にレ点が入って、後から読む形になります。「有り難し」ですね。
しかしこの言葉は、前から普通に読むこともできます。
そうするとこれは、「難、有り」となります。
つまり、困難があること、辛く苦しいことがあることです。

すべてを受け入れれば、そんな苦難でさえ「有り難い」ことになります。

西郷隆盛は、3度の島流しにあったり、上手く行かなくて自殺を試みたこともあるほど不遇の時代を過ごしました。その苦難に耐えたからこそ、後の大西郷があるのです。

このことは、神渡良平さん「西郷隆盛 人間学」に詳しく書かれています。
神渡さんは西郷の生き方について、こう言っています。

「自分がいま置かれている状況をいたずらに嘆くのではなく、それを受け入れ、それを楽しみ、そこでベストを尽くせば、青天白日の日がやってくるのだ。」(p.145)

また、孟子は、こういう言葉を残しています。

「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏(くうぼう)し、行ひ其の為すところに払乱(ふつらん)せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり。」

解説は私のブログ記事「君子困窮」にありますので、そちらをご覧ください。
簡単に言えば、苦難によって能力が高まるということです。
そうだとすれば、苦難は悪いことではありません。それこそが奇跡であり、「有り難い」こととも言えるのです。

私がオンライン上で行っている「幸せ実践塾」では、そういうことをお伝えしています。
ここではこれ以上詳しく書けませんので、気になる方は、どうぞブログやメルマガをご覧ください。

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