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VTuber家長むぎの綴る、優しくて美しい小さな絶望

恥ずかしながら、私がVTuberという存在にはまる前は彼ら彼女らは「見目の良いアバターを使って雑談やゲームする人たち」という認識だった。もともとゲーム実況などは好きでよく見ていたので特に抵抗も無くはまってしまったが、見始めてからその認識は間違っていたことを痛感した。

VTuberという存在は非常にあやふやで、それゆえに自由で可能性は無限だ。メタ的な話になるが強烈なキャラクター性を維持する人、逆に庶民的な感覚やあるあるを持ち武器に、私生活も織り混ぜて自分を売り込む人、「Vとしての自分」でストーリーを作る人…たくさんの人がそれぞれの「自分の売り方」を模索している。
活動も雑談やゲーム実況配信だけじゃない。歌を歌う配信をする人、何かを解説する動画をあげる人、視聴者からお題を募集してラジオをする人、ドッキリを企画する人、3Dモデルを使ってライブや企画をする人、クイズ番組をする人…「それVでやる意味ある?ww」て思わず笑っちゃうような企画や番組も多い(無人島に行かされたりローションで遊んだりね)

そんな中、ある意味一番「Vでやる意味があるのか?」と疑問に思うのが文章なのではないか。
文章はVの一番の強みである素敵な声も見た目も関係ない。スマホ一台あれば誰でも言葉を紡いで発信できる。そんな行為にVという自分を重ねてある種の作品のように文章を生み出すVTuberがいる。
家長むぎというVTuberの綴る文章に心震えたので、その話をさせてほしい。

むぎちゃんは元々私がよく見ていた剣持刀也という男性Vとよくコラボしていて、何度かゲーム実況を見ていた。剣持は毒舌含む会話のテンポの良さとよく回る頭、企画力、とにかくエンターテイナーとしての立ち回りが強烈なVだ。その剣持とよく一緒にゲームをしているむぎちゃんは、正直初見の感想は「かわいい」だけで、剣持と比べると特に尖ったところはあまり感じられなかった。元気で柔らかく愛らしい、ふわふわの小動物みたいなかわいさのVTuberだった。

何回かコラボや番組で彼女を見た時は「気になるな~」止まりで彼女の配信を見たことはなかったけれど、ある日とても丁寧にVの感想を書くTwitterのファンの方が「家長むぎのnoteはすごい」と呟いていたので暇潰しに読んでみた。


日常のふとした感動や好きなことを綴る文章はとても美しかった。圧倒的な語彙力で、かつ難しい言葉はあまり使わず、読みやすくて綺麗な印象だ。ふわりとした軽やかな文体から、普段の雑談や実況の時の彼女とはすこしだけ違う大人びた知性を感じられた。けれど彼女らしい文だった。
そんなかわいらしくて綺麗な文よりさらに強烈に惹かれたのは、彼女の日常のふとした小さな絶望や悲しみや諦め、疑問、寂しさ、そして生々しい生への「乾き」の文章だった。 
今でも本当にこの文はいつもの配信から見れる、かわいらしい仕草と声の彼女から綴られたのか?と思う。きゃーきゃーと愛らしく笑いながらハッピートリガーでゲームしてる彼女と本当に同一人物なのか?と疑ってしまう。
ふとしたことから思考を重ね、自分を冷静に、皮肉げに、そしてどこか諦めも交えながら観察している。「自分は結局理想の自分にはなれない」「いい子でいたかった」「自分はこれでいいのか」「もがき続けるしかない」文章の端々から感じる、そこには誰もが持つ小さな絶望が散らばっていた。
こんな生々しいことを綴っていいの?あなたたちはイメージを商売とし自分を商品にする仕事をしているんじゃないの?Vって理想の形を売るのが仕事ではないの?少し不安になるほど、生々しく、恐ろしく、それでいて美しい文章だった。


何にでもなれるVTuberという職業の彼女が綴る「理想の自分にはなれない」「理想を求めてもがき続ける自分を売っていくしかないのだ」という言葉はあまりにも悲しくて絶望的だった。

彼女の文からは「愛されたい」「愛したい」「すきなものをすきなままでいたい」「他人を大切にしたい」「自分を好きになりたい」「だれかになりたい」「理想の自分になりたい」「もっと知りたい」「もっと知られたい」というたくさんの乾きを感じる。

けれどただ暗いだけじゃなくて、日常で見つける自分自身への小さな絶望を一つ一つ丁寧に拾い上げて、泥を洗って優しくタオルで拭いてあげるような慈しみがある。優しいから絶望するのかもしれない。一つ一つ丁寧に拾ってしまうから、自身をむなしいと見てしまうのかもしれない。丁寧に拾わなければ、雑に持ち上げて放り投げてしまえば、そんなにもがきながら生きないで済むのかもしれないのに、彼女は自分の気持ちを丁寧に丁寧に拾い上げて磨き上げて文章にしている。

家長むぎの文章は美しくて優しくて、身近な絶望にあふれている。

強い光も闇も人を惹き付けるけれど、彼女のは闇なのだろうか。彼女が綴るのはきっと誰もが心に少しは持つであろう、諦念や寂しさだ。闇と言うよりは、冬の夜明け前に見える、ブルーグレイの空みたいな文章だなと思う。とても寒くて切ない美しさと、でもこれから昇る朝日の眩しさを予感させるような文章だ。

彼女は剣持刀也や月ノ美兎のような、強烈なインパクトを与える、強い光のスターじゃないかもしれない。けれどもその夜明けの空みたいな文章は、確実にたくさんの人の心を引き寄せ、思考の一部となっている。
一番好きな文章はやはりこの記事だ。生々しい。あまりにも生々しく、それでいて綺麗な文章がこころをざわめかせる。自分のことを「錆」だと表現する人間を、私は見たことがないし、たぶん私はこれからも見ることは無いと思う。「VTuber」という、自分と言うキャラクターを商品とすることのグロテスクさは薄々感じていたけれど、それをVTuber自身である家長むぎが発言するということの恐ろしさ。なんなんだこのVTuberは。敬意と畏怖と興味が同時にのしかかる。

むぎちゃんの文章を読んでいると、もっと彼女のことが知りたくなる。でもそれは、Vとしての「家長むぎ」を知りたいのか、それともVは関係なく、この文章を考えた彼女自身を知りたいのか。 

あなたはどんな人生を送ってきたのだろうか。どうやったらこんなに柔らかく美しい絶望を文章にできるのだろうか。
あなたは何者なのか。あなたはいつも何を思いながら何を食べて、何を感じながら何処を歩いて、何を考えながら眠るんだろうか。

貴方がどんな人なのか知りたい。でもそれと同時に知ってしまうと怖い気持ちもある。サンタさんの正体が両親だったと知った時みたいな気持ちだ。不確定でファンタジーだったものの正体が、ひどく現実的で身近なものだったと知ってしまうような怖さもある。


あなたは誰で、どこに行くのだろうか。


あなたの紡ぐ文章からあなたを知りたくて、ちょっぴりの恐ろしさとともに、今日もnoteの更新が無いかと期待している。


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