ガルクラ第7,8話 桃香と仁菜、二次元とCG


CGのなかの二次元

 CGアニメーションであるガルクラでは、「二次元」であることは、演出の一環として小道具的に用いられている。たとえば写真は二次元で表現される。現実世界でも写真は三次元を二次元に変換するけれども、それとパラレルに、ガルクラの世界ではCGの物体が二次元に変換される。

 けれども写真における、こういったCGから二次元への変換にも例外がある。たとえば第7話。トゲトゲのメンバー五人で撮った写真は二次元にならない。それはCGのまま私たちの眼に提示される。ここではなぜ例外があらわれるのだろうか?

 ひとつには、それが「写真」ではなくスマホに取り込まれた「画像」だからという理由が考えられる。この集合写真はルパのスマホで撮影されている。その画像を映しているのは、写真ではなくスマホのスクリーンだ。だから二次元に変換されないのだ、と。

 だけど、それだけでは語りつくせない違いが、このCGと二次元のあいだにはある。この集合写真が撮影された第7話の次話、第8話に目を移そう。

桃香の回想、仁菜の回想

 第8話は、桃香の過去の回想からはじまる。高校時代の、ダイダスのメンバーたちとの思い出。自分たちが今の道に踏み出すことになったそのきっかけの場面だ。
 この回想は普通のアニメであるかのような「二次元」アニメーションによって描写される。桃香においては、過去の回想もまた、「写真」という過去を提示するものと同じに二次元に変換される。

 この第8話で、回想される過去は、もうひとつある。仁菜のそれだ。
 内容は第8話以前に、すでに語られた放送室ジャックについて、さらに詳細に語るもの。断片的に挿入されるこの回想で、仁菜が学校と父から提示された「和解」を拒み、その足で放送室に向かい、「空の箱」を校内に爆音で流していたことが明らかになる。
 この回想は、先ほどの桃香の回想とは違い、CGで描写されている。

 桃香と仁菜の回想のこの違いは、さきほど挙げた考え、<「写真」⇔「画像」>では説明できない。回想は写真とスマホという媒体の違いに回収できないからだ。では、「二次元」と「CG」という違いはなにによって生じているのか?

<二次元⇔CG>の使い分けがあらわすもの

 先に考えを述べてしまえば、<二次元⇔CG>の違いは、<過去⇔現在>あるいは<幻想⇔現実>という対立に対応しているように見える。桃香と仁菜、二人の回想は、どちらもお互いにターニングポイントとなった出来事だ。だがそれにたいする二人の距離も、感じ方も異なっている。

桃香と過去の幻想

 桃香について言えば、第8話で回想される過去は、もはや戻れない絶対的な過去と化している。ダイヤモンドダストを脱退した以上、その過去と自分のあいだには埋められない断絶が生まれてしまっている。戻れないだけにいっそう、その回想には、古き良き日々であったかのようなバイアスがかかる。
 桃香にとってこの回想は「過去」であり、彼女の葛藤や負い目といった「幻想」によって飾られている。結果としてそれは二次元で描写され、それが桃香の幸せだった(と今の彼女は感じているだろう)日々の思い出にすぎないことが示唆される。

仁菜と地続きの今

 仁菜の場合、桃香とは違って、彼女が高校と中退するきっかけとなった出来事は、現在と「地続きの今」だ。彼女にとってその出来事は終わっていない。悪い意味でも、良い意味でも。「悪い意味」についてはあらためて言わない。「良い意味で」というのは、この出来事が、そのまま桃香との出会いと「バンド」活動という現在へのターニングポイントでもあれば、「私は間違っていない」という信念が確立した瞬間でもあるからだ。
 つまり仁菜にとって、この過去は今の自分と切り離せないという意味で「現在」なのだ。今の彼女はこの回想の瞬間からはじまっている。ここに幻想の入る余地はあるだろうか? 彼女がそこで抱いた信念は幻想だろうか? 違うと思う。なぜなら彼女はその信念とともに行動して、今ある現実に「ぶつかって」いこうとしているのだから。

それが、「今も生きている時間」であること

 こういうわけで、二人の回想が桃香は二次元、仁菜はCGと異なって描写されているのは、それらが<過去⇔現在>もしくは<幻想⇔現実>という対比関係にあるからではないか、と思う。

 二次元とCGの使い分けを巡っても、この作品、いろいろと考えが尽くされているのはたしかだ(※)。桃香にとって、高校の出来事は今の自分と切り離された「思い出」だ。だからある種の脚色をともなって回想され、そのために二次元で描写される。仁菜にとっては、高校の出来事はまだ過ぎ去っていない、終わっていない。だからそれはCGのまま、ある種の実体感をともなったものとして、回想されることになる。

 冒頭の「例外」の話に戻ろう。なぜトゲトゲの五人で撮った写真は二次元に変換されなかったのか。それはこれを撮った瞬間が、五人にとって現在であり、生きている瞬間だからだ。写真が切り取ったこの時間は、彼女たちが生きている現実そのものであって、まだ決して幻想ではなく、思い出にもなっていない。被写体が二次元に変換されないのはそのためだ。

おわりに代えて 「幻想」の価値

 桃香の思い返した記憶は、二次元で描かれることになっているけれども、それは色褪せて、それだけ美しく、しかも彼女にとって大切なものとなった記憶ということなのだろう。そうであるだけにその記憶はいっそう彼女を苦しめる。元メンバーたちへの負い目が、桃香の心には深く刻まれていて、それが彼女が先へ進むのを阻む。

 第8話で描かれるのは、この「幻想」の克服でもある。

 ダイダスの面々と対峙し、彼女たちから「忘れないから」と告げられるとき、やっとその記憶は桃香にとっても、肯定できるものになる。ここではじめて、その記憶が「間違ってなかった」ことになる。

 そうなることを知ってから桃香の回想を見返すと、二次元で描かれたその映像が、切なくとも優しいものとして映るようにも思える。第8話を経た桃香も、こんなふうにこの頃を思い出すようになっているのだろうか? たぶんちがうだろう。けれどすくなくとも、それを思い出すときの苦しみは和らいでいるはずだ。

 これは幻想の克服ではあっても乗り越えではない。その過去にはもう戻れない。だから、桃香はその過去の持っている意味合いを変えることしかできない。けれどもそうやって書き換えられた「幻想」が、どれだけ力強く彼女の背中を押してくれるだろう。仁菜の「告白」に桃香が涙を流せたのは、過去を彼女自身が肯定できるようになったためでもある。そして今度は、その同じ過去が桃香が前に進むための理由のひとつになってくれるだろう。

 この作品において、二次元で描かれているからといって、そうやって二次元で提示されたものの価値が否定されているわけではないことには、注意しておかなければならない。ルパとともに写真を撮った瞬間が、ファンの子たちにとってどれだけ大切な瞬間だったか。これからの桃香にとって、「ダイダスのメンバーとしてあった日々」がどれだけかけがえのないものになっているか。


(※)ここで書いている<二次元⇔3D>の考えはあくまで第7話、8話に限った話ではある。全話にわたってもっとクリアに区分けできる説明があるのかもしれないし実際にあるだろう。あるいは、別の意図をともなってこの使い分けが用いられている部分もあると思う。このページに置かれているのは、あくまでその一断面を垣間見ようとして行った解釈だ。なんにしても、この<二次元⇔3D>の使い分けは、作り手がCGという媒体に意識的であることの証拠である。

ガルクラ第8話について、もうひとつページができています。こちらが二次元とCGという演出に着目しているのにたいして、あちらはキャラクターの感情移入という観点からいろいろ語ってます。同じ主張を別なやり方で繰り返してるようでどこか違ってる、というようなページです。

自分によって書かれたガールズバンドクライの記事は以下にまとめています。

 


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