「被害者救済のために加害者の処罰が必要」論の話

精神科医の斎藤環先生は、毎日新聞の「「いじめによるトラウマ、後遺症は残る」 精神科医 斎藤環さんに聞く」のなかの、「◇いじめ後遺症を防ぐためには加害者へ処罰を!」という段で、以下のように述べています(強調筆者)。

ーー いじめ後遺症を防ぐためにはどうしたらいいでしょうか。
斎藤 どこまで効果があるかは疑問ですが、処方箋としては、①謝罪②処罰③納得は最低ラインです。
 いじめが起きた直後、加害者は被害者にきちんと謝罪することが大切です。謝罪すればそれですんだと思いがちですが、それだけでは不十分です。処罰することは必要不可欠です。
いじめ対策に教師の指導は一切いらないと私は思っています。指導よりも処罰です。加害者にきちんとした罰を与えることで、被害者もある程度納得します。そして、この本人の納得がポイントです。いじめが起き、その直後に加害者にきちんとした罰が与えられると被害者の多くは納得します。謝罪も処罰もなされぬまま、うやむやにしようとするからこじれるのです。

ここでは、非常に明確に、「被害者救済のために加害者の処罰が必要」という考え方が示されています。

また、「死刑の存廃は国民性や歴史を無視しては語れない」という記事では、弁護士の荘司雅彦先生が以下のように述べています(強調筆者)。

今回は、私なりに日本人が死刑存続を支持する理由を考えてみたいと思います。
日本では、昔から「敵討ち」や「仇討ち」が行われてきました。江戸時代の法制度では、原則として武士が自らの尊属の敵討ちをすることが認められていましたが、武士でなくとも尊属でなくとも「仇討ち」は賞賛されて賞罰の対象にならなかったことが多かったそうです。
このように、今日の日本人の死刑に対する意識は、被害者遺族の被害感情、報復感情を充たす制度として国家の刑罰としての死刑が存在するのです。もし死刑制度が廃止されれば、遺族自身が非合法的な方法で復讐を行う恐れすらあると私は考えています。

この中に、「被害者遺族の被害感情、報復感情を充たす制度として国家の刑罰としての死刑が存在する」という記述が見られます。死刑廃止論・死刑肯定論を論じるネット記事を色々見ると、それが現代でも妥当なのか、前時代的で野蛮なのかという点では意見の相違があるものの、考え方自体はごく標準的でありうる、日本における死刑存廃の基本的な争点として受け入れられているように思われます。

そしてまた最近、斎藤先生は持論をツイートされていました。特に考えは変わっていないようですが、より過激にはなったのかなと思いました。

交通事故の被害者遺族が加害者に対して厳罰を求める署名活動をする事例も見られました。なんと29万筆も集まったようです。

こうした昨今のニュースを見て、私も意見を書いておこう、と思いました。というのは、「被害者救済のために加害者の処罰が必要」という主張には、とても驚いているからです。

罰の目的

「被害者救済のために加害者の処罰が必要」という主張に私が驚いたのは、それが標準的な「罰の目的」に対する理解であるとは思ったことがなかったからです。私は法律家でもなんでもなく、大学では法学の授業と憲法の授業が2単位ずつあっただけで、法についてよくわかってはいないのですが、とにかく、私は今まで、罰の目的に被害者救済は含まれていない、と思っていました。そういう事情があるので、本稿全体としては罰の目的の話はあまり関係はありませんが、誠実さを期すために罰の目的についても触れておきます。

私がどう思っていたかについて説明するために、ちょっと他の人の言葉を借ります。

日本弁護士連合会の「裁判員の皆さまへ 知って欲しい 刑罰のこと」(https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/saibaninnominasamahe.pdf)では、以下のように書かれています(強調筆者)

裁判所は,被告人が有罪だと判断したとき,どういう目的で刑罰を科すのでしょうか。
もちろん,犯罪に対しては刑罰が言い渡されることを広く社会に知らせて,犯罪を予防するという意味も重要ですが,ほかにも「刑罰の目的」についての考え方があります。その一つは,その人が再び罪を犯すことのないように教育する目的(教育刑の考え方), もう一つは,罪に対して報復をする目的(応報刑の考え方)を重視する立場です。

日本弁護士連合会は死刑廃止論ですので、その辺は考慮した方がいいですが、しかしこの文章については、刑罰に対する基本的な理解のはずだ、と思います。同じ内容をもうちょっと堅苦しい言葉で分類したものがwikipediaにあったのでそれも参考に引用します(強調筆者)と、

刑罰については、絶対主義相対主義併合主義の3つの立場がある。
絶対主義
刑罰は正義を回復するための道義的必要に基づく応報であり、犯罪を行ったから罰するものであるという立場を絶対主義という[3]。絶対主義は絶対的応報刑論を内容としている[3](応報刑論を参照)。絶対的応報刑論の論者としてカントやヘーゲルがいる[4]。
相対主義
刑罰の合目的性・有用性から刑罰は犯罪を行わせないために罰するものであるという立場を相対主義という[3]。相対主義は目的刑論を内容としている[3](目的刑論を参照)。
相対主義には一般予防論特別予防論がある[4]。
一般予防論とは、刑罰は犯罪者を処罰することにより社会の一般人を威嚇し犯罪が発生することを抑止する目的をもつものであるという立場をいう[4]。一般予防論は中世における不合理で残虐な刑罰を批判し、相対主義によって刑罰の合理化や緩和化を図ろうとしたもので、一般予防論の論者としてベッカリーアやフォイエルバッハがいる[4]。
特別予防論とは、刑罰は犯罪者を処罰することにより犯罪者自身を改善するもので、それによって将来の犯罪を抑止する目的をもつものであるという立場をいう[4]。特別予防論の論者としてリストやフェリーがいる[4]。
併合主義
絶対主義と相対主義の両者を統合し、刑罰には正義の回復と合目的性のいずれも存在し、犯罪を行ったがゆえにかつ犯罪を行わせないために刑罰は存するという立場を併合主義という[3]。
20世紀のヨーロッパ各国での刑法改正作業では応報刑論と目的刑論が対立していたが、応報刑論者も刑罰による犯罪者の改善の必要性を承認するようになったため併合主義が通説化した[4]。

と書かれています。

こうした考え方をどう理解していくかということなんですが、私は、「被害者」という言葉は登場しないし登場する余地もないように思っていたんですね。

ちょっとだけ関連がありそうなのは応報刑論なのではないかと一見は思えるかもしれないけれど、それも、「刑罰は正義を回復するための道義的必要に基づく応報であり、犯罪を行ったから罰する」となっていて、それは、被害者がいないタイプの犯罪に対しても適用できる考え方であり、あくまで犯罪者がいればそれを罰するのが正義だという話であって、似ているように見えるかもしれないけど、被害者救済とは全然別の考え方なのではないか、と私は思っていました。まぁカントとか読んだわけじゃないのでわかりませんが…

先に挙げた荘司先生の記事は、

このように、死刑制度の存廃の是非は、長い年月によって培われた国民や社会の意識によって大きく異なるものなのです。もしかしたら、西欧人の目には、「忠臣蔵」は美学どころか極めて野蛮は物語に映るのかもしれません。
時代背景や宗教観、民族意識を無視して、一概に「死刑制度を存置している日本は野蛮だ」と決めつけるのは価値観の押し付けでしかありません。これは西欧文化の祖であるギリシャ文化を否定するようなもので、まさに”天に唾する”ような行為ではないでしょうか?

と、日本独自の価値観を強調して締めくくられています。これは本当に法学全然門外漢な私の想像でしかないですが、先に挙げた「応報刑論」「一般予防論」「特別予防論」「それらの折衷である併合主義」はカントなどのあくまで西欧哲学に基づく刑法論であって、「被害者救済のための加害者の処罰」はそこに含まれない日本の土俗的な価値観であり、日本の法学体系のメインストリームには含まれていないのではないか・・・という気がするのですが、どうなんでしょう。

もちろん、私の理解が間違っていたかもしれません。そういう可能性もあります。被害者救済は罰の目的に通常既に含まれているんでしょうか。どうなんでしょう。

罰の機能

「被害者救済は罰の目的に含まれているor含まれていない」というのは、私にはよくわからないし、そこの驚きが出発点ではあるけれども、わからないままそのどちらかの前提に立って文章を進めてしまうのは危険なので、ここからは、その点に関しては罰の「機能」という言葉を使わせてください。つまり、「それを目的としているかどうかはともかく、現実の機能として、加害者を罰することで、被害者が実際に救済される」という話です。それなら法哲学的な議論から離れることができ、扱いやすくなります。

まあ、本当にそういう機能があるのかどうか、つまり加害者を罰すると本当に被害者が救済されるかどうかについても、議論の余地があるとは思います。また、刑罰というのは自然的に存在するものではなく、人が設けるものですから、機能を論ずるよりもあくまで目的を論ずるほうが妥当だとも思います。

とはいえ、とりあえず、そういう機能を想定することは可能そうに思えます。あるいは、少なくともそのような機能があることを信じている人はいる、ということは言えるでしょう。

「必要」なのだとしたら

さて、加害者を罰することに被害者を救済する機能があることと、被害者を救済するためには加害者を罰することが「必要」なのかどうかはまた別の問題です。その真偽については、何らかの心理学的な調査を行っていけばいずれ明らかになることだと思うので本稿で深く追究するつもりもないのですが、しかし、必要だと感じる人がいる、ということは確かだろうと思うのです。

実際、何らかの被害に遭った時に、「加害者が処罰されなければ絶対に怒りが収まらない」と感じるのは、ごく普通の感情だと思います

しかし、しかしですね、「もし必要なのであれば、それはとても悲しい事態を引き起こすのではないのか?できれば<必要でない>という結論が出されてほしい・・・」と私は思います。

というのは、「被害者を救済するために加害者を処罰する必要がある」という命題がもしも真ならば、「加害者を処罰できないならば被害者を救済できない」という命題もまた真だからです。

そして、加害者を処罰できない場合というのは、実際のところ、たくさんあります

加害者を処罰できないパターン

4パターンあると思います。

1.加害者が存在するのは確かだが、誰なのか全くわからない時

殺人事件や置き引きで目撃情報も証拠もないとかの場合に、犯人が誰なのかの候補さえ挙げることができないことがあり得ます。つまり端的に迷宮入りしてしまっている状態です。

2.加害者の候補がはっきりしているが、証拠が足りず起訴や有罪判決に至らない時

特にレイプなどでありがちだと思います。被害者の証言以外の証拠が不足していて、容疑者が否認していれば、完全に平行線になってしまうパターンです。他の人物が加害者であることは絶対にあり得ないですが、かといって、その容疑者を処罰することもできない。最近では、伊藤詩織さんが被害に遭った事件が有名で、社会現象になりました。

3.加害者が逃亡した時や、死亡している時

逃亡し続けて処罰されぬままの犯罪者もいます。交番の前に写真が貼ってあったりしますね。また、交通事故などでは、加害者側も死亡するということは少なくありません。「殺すだけ殺して自分も死ぬ!」みたいなタイプの殺人者も結構いますよね。最近だと、川崎で起きた連続殺傷事件では、犯人はその場で自殺してしまいました。こうなっては処罰のしようがありません。

4.本質的に加害者が存在しない時

これも非常に多いパターンです。地震や豪雨などの天災では、大変な被害が出ますが、そこには加害者はいません。ただ被害者がいるだけです。

「加害者が処罰されなくて救われない」つらさ

実際のところ・・・今上に挙げたパターンの被害者の方で、「加害者が処罰されなくて救われない」と感じている人は、とても多いのではないかと思います。一生苦しみを背負い続けることになる人もいるでしょう。

それは・・・本当に悲しいことですよね。

もっときついのは、加害者以外を責める状況、特に被害者を責める状況に発展してしまう可能性があることです。レイプ被害者へのバッシングや、地震の被災者遺族が「何であの時送り出してしまったんだろう」などと自責の念を抱くなど。そうしたことは、客観的に見れば全く不合理なのですが、加害者を責めることができない中で、それでも誰かしらを責めずにはいられなくて、そういう理不尽に行き着いてしまうのだろうなと思います。

そうした苦しみは実際に存在するだろうと思います。しかし・・・そうした苦しみからは、救われるべき、なのではないでしょうか。

被害者は絶対に救済されるべき

被害者は何があろうと絶対に救済されるべきです。それが正義で、被害者の救済について考えるときには常に最優先されるべき考え方だと思います。それはどんな時でもです。つまり、加害者が誰だかわからなかろうと、存在しなかろうと、そんな加害者の状況とは無関係に被害者は救済されるべきです。レイプ事件の被害者への対応などで本当に良くないのは、真実を解明することに躍起になって、被害者に二次被害が生じたりすることです。真実も大事ですけど、加害者を罰することも大事ですけど、それよりまず被害者が十分に救済されるべきです。

「被害者を救済するためには加害者を処罰する必要がある」というのが本当かどうかは私にはわかりません。本当かもしれませんし、少なくとも、そう信じている人はたくさんいます。被害者の多くもそう感じているでしょう。

しかし、どうあるべきか、という観点で言えば、被害者は何があろうと絶対に救済されるべきだと私は思いますので、おのずから、「被害者を救済するためには加害者を処罰する必要がある」べきでない、そうであってほしくない、と思います。

つまり、すべての被害者が救済されるためには、被害者救済と加害者処罰は完全に分離される必要があるのです。

もちろん・・・それは、そうであるべきだという理想論の話であって、現実には分離できるものではないのかもしれません。でも私は、分離できてほしい、と思います。自分は悪くないのに被害者が救われないのって、辛すぎますよ。

最後に:被害者支援について

ですから、特に被害者の援助・支援をされる方は、その辺を意識してほしいと思います。援助職者は理念が大切ですから。「加害者を処罰しなければ救われない」のだとしたら、永遠に救われないです。「加害者を処罰する、出来るだけ厳罰に処するように協力すること」は、被害者への支援とは言えないと思います。

被害者の気持ちに寄り添うことはとても大切です。

「あなたは、加害者に罰されてほしいのですね」

と寄り添うことは大切です。しかし、

「私も加害者が罰されることを願っています」

は不適切だと思います。それは単にたまたま支援者の義憤的な意見が被害者の意見と同波長だっただけであり、支援とは言えないと思います。そこを混同せずに支援していくべきだと思います。

社会の仕組みとしては、賠償という仕組みが非常に良くないと思います。つまり、賠償は加害者を認定できなければ発生できない非常に粗末な仕組みです。そうではなく、保険など、被害さえあれば効果を発揮できる仕組みが必要です。たとえ誰も悪くなかったとしても、被害者はきちんと救済を受けられる。そんな社会が望ましいのではないでしょうか。

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