灯りというメタファでもって解釈するシャニアニ第二話『ウタという炎』
みなさんはシャニアニの第二話をもうご覧になったでしょうか?
私は既に先行上映で二回も観ているのですが、数ヶ月経った今、もう一度観てもめちゃんこ楽しんで観ることができました。
というのも、この第二話は構成やメタファがとても綺麗で非常に私好みなのです。
なおかつメタファの活かし方が非常にアニメ的だったのもあり、劇場を後にする際に「アニメという強みをうまく活かしていたし、第一章の中でも抜きん出て良かったなぁ」と思ったのを覚えています。
とはいえ、私が観測する限りではそういった部分に対する言及をされている同士を見つけることができず。綺麗な物があったはずなのにそれが評価されていない現状を勿体無く感じていたわけですが……まぁ無いってんなら自分で書きゃいいわけで。
とまぁ、そんな経緯で今回記事を書くに至りました。
内容としては、
みたいな感じです。
よろしくどうぞ。
シナリオ概要
さて、いきなりシナリオを全て把握している前提で記事を進めるのも少し不親切ですので、第二話の解釈をするにあたってまずはシナリオの流れというものをざっくりとでも掴んでおきましょう。
この記事を読んでいる時点である程度把握しているとは思うのですが……一応ね。
ちょっと雑に纏め過ぎている感は否めませんが、とはいえ、第二話のメインはアンティーカのMV撮影ですし、流れを掴むだけならこの程度で問題ないでしょう。必要な部分は適宜補足すればいいわけですし。
このように表面だけを言語化してしまうと特筆するほどでもない普通のストーリーに見えますが、先述したように第二話の魅力は構成やメタファにあります。
だからこそ、着目するべきなのはMVがストーリー仕立てであるという点でしょう。
とはいえ、MVにストーリーがあることはなんら珍しいことでもありません。重要なのはストーリー仕立てのMVということは、MVを劇中劇と捉えることができるということです。
劇中劇としてのMV
多くの作品において、劇中劇は登場人物や彼らの置かれている状況の写し鏡であったり、あるいはその先の展開を示唆するものになっています。
今回登場するMVという名の劇中劇もその例に漏れず、第二話のストーリーと重なるような構造になっています。
役を演じるということは、舞台の上ではその役と演じる人間がイコールになるということ。
だからこそ、劇中劇という手法がとられる場合、演じる役がキャラクターのメタファのような働きをすることが多いわけです。
では、今回のMVにおける配役がどのようなものだったかというと、
見ての通り、恋鐘以外のメンバーはやりたいことがあるはずなのにそれができないという役回りになっています。
MVのストーリーはそんな彼女達のハートに恋鐘ことレジスタンスが火を付けてまわった結果、心に秘めた想いを解放できるようになる(やりたいことをできるようになる)というものなのですが……この展開、どこか既視感がないでしょうか?
やりたいことを胸に秘めていたアンティーカのメンバーが恋鐘の働きかけによって行動に移せるようになるという展開を、我々はどこかで見たはずではないでしょうか?
そう、撮影が中止されてから監督に直談判に行くまでの一連の流れがMVのストーリーと上手く重なっているのです。
「だからなんじゃい」と思われるかもしれませんが、ここで重要なのは恋鐘がアンティーカのウタを熱いもの、ライブを観客に熱を伝播させるものだと定義したことです。
アニメ的な手法で描かれる"熱の伝播"
恋鐘はアンティーカのウタを熱いものであると定義しましたが、MVではそれを炎に例えています。
MVにおける恋鐘の役がただのレジスタンスではなく、『みんなのハートにウタで火を付けるレジスタンス』だと表現されているのはこれが理由なのでしょう。
このウタを炎に例える行為は第二話の解釈において非常に重要であると言えます。
何故なら、MVの楽曲でもあるバベルシティ・グレイスでもウタを炎に例えているからです。
だからこそ、アンティーカのウタである"熱いもの"は炎である、と言ってしまっても良いと考えられます。
第二話のサブタイトルに『ウタという炎』とあるように、この回では炎がウタのメタファになっているわけですね。
加えて、レジスタンスがウタで火を付ける対象がハートであることから、炎とは胸に灯る熱い想いのメタファでもあることがわかります。
城の住人達は心のままに行動できるようになるのも、撮影現場にて恋鐘の言葉によってアンティーカの面々が心に秘めていた熱い想いを口にできるようになるのも、彼女達がハートに火を付けられたのが理由なのですから。
さて、撮影現場には彼女達のように撮影をしたいと思っているが口に出せない人間がいます。
それが『わかるな』でお馴染みの監督です(シャニPは見事なまでの即落ち二コマ……というか勝手に落ちてくれたのでここでは言及しません)。
そんな彼にアンティーカとシャニPは直談判しに行くわけですが、大前提としてこれは停電中の出来事です。なので室内照明は機能していません。
ですが、直談判をするシーンになると突如、待ってましたと言わんばかりにアンティーカ達と監督の間にオレンジのライト(↓こんな感じのやつ)が出現します。
しかも画面の中央に意味深な形で。
常夜灯のようにオレンジ色に光るそれは「停電中にライトの一つも準備しないはずがない」という物語を補完する描写とも取れますが、どちらかと言えば第二話において火が重要だからこその描写だと言えるでしょう。
この演出で重要なのは徹底してアンティーカやシャニPがライトの左側、監督が右側にいるということです。
より正確に言えば、アンティーカには正面からランプの光が当たっているが、監督はライトに背を向けているという構図が重要なのです。
彼女達の熱い想いを胸に灯る炎と形容するのなら、これほどわかりやすい描写はないでしょう。
だからこそ、監督が撮影を了承するシーンではライトの光が彼の正面に当たるのです。
つまるところが、アンティーカの想いが伝播し(心に火が灯り)、彼の本音が顔を出したわけです。
この描写の何が良いって、光によって登場人物の心情や立場を表すというアニメの古典的な手法が使われていることです。
こういった描写は昔からアニメで多用されているからこそ、アニメとしてのシャニマスの象徴的なシーンだと私は感じました。
もしかすると「そんなものはなんてことない、先述しているように停電なのにいつまで経っても灯りを用意しないのはおかしいからだ」と見る向きもあるかもしれません。
ですが、第二話においてフォーカスされるライトはどれも同じ色味のものなのです。
例えば、MVに登場するテーブルランプ。
これに三峰こと冗談も言えない道化が躊躇いがちに手を伸ばしているわけですが、灯りが何のメタファであるかや三峰が演じる道化がどんな役柄だったかを踏まえればこの描写が何を示しているのかは自明ですね。
あるいは、停電によって消えたシャンデリア。
これは物語の転換点でもあり、MVと第二話のストーリーが符合するキッカケになる重要なシーンで登場するライトであり、今回の物語にはなくてはならないものです。
更に言えば、これらの光はMVの楽曲でもあるバベルシティ・グレイスのジャケットに描かれている光と同系統のものです。もちろんこれはCパートのライトも同様です。
直談判のシーンに登場するライトもそれらと同じ色味だからこそ、そこには意味があると思うわけです。
シャイニーカラー
さて、監督が撮影を了承する際の『だが、その君達らしさ。今この瞬間の輝き。俺が収めてやる』『わかるな』という台詞は、彼が初めてアンティーカと出会った際のセリフに近しいものです。
撮影が始まる前のアンティーカは、その言葉を受けて不安そうな、監督の真意が理解できていないような表情をしていました。
摩美々に至っては『わかりません』と言いかけ、三峰に止められていました。
しかし、今、心に炎を灯す彼女達には監督の『君達らしさ。今この瞬間の輝き』という言葉の意味が理解できるわけです。
だからこそ、彼女達は初対面の時と打って変わって晴れやかな表情で返事をするわけですね。
そもそも、第二話はアンティーカに初めてフォーカスが当たる回だからこそ、彼女達のイントロダクションという性質が強く表れている回だと思います。
故にアンティーカがどのようなユニットで、どんなアイドルがいて、どんな楽曲があって〜という、自己紹介的な側面があるわけです。
ウタで火を付けるというユニットの特色が強調されているのはこれが理由ですね。
さて、監督はそんなアンティーカの彼女達らしさを輝きと評しました。
ですが我らがシャニPは監督とは違った表現の仕方をしています。
輝きと色はアンティーカを表現する言葉という意味で同列であり、だからこそ、彼女達のらしさとは輝く色だと言ってもよさそうです。
もう少しそれっぽい言い回しをするのであれば、第二話で描かれたものはアンティーカの輝く色(シャイニーカラー)であり、このお話は彼女達が自分達の輝く色を自覚するまでの物語だったのでしょう。
バベルの塔と相互理解
さて、これは本題にはあまり関わらない話なのですが、何故あの監督はあんなにも『わかるな』という台詞を連呼していたのでしょうか?
まぁ"ちょっと気難しい業界人"というキャラ付けの一つと捉えることもできますが、個人的にはMVのベースがバベルの塔だからだと考えています。
というより、そもそもバベルシティグレイスという曲のベースにあるものがバベルの塔なのです。
詳しい話は端折りますが、創世記11章には神がバベルと呼ばれる街(バベルシティ)にあった塔を壊し、ついでに共通言語を世界から消し去ったという話が書かれています。
共通言語とはその当時全人類が使っていた言語であり(あくまで聖書的な世界観のお話)、それが無くなったことで世界には日本語や英語など様々な種類の言語が生まれたと聖書にあるわけですが……ここで重要なのは、これによって人間の相互理解が妨げられているという点です。
つまりるところが、この世界に言語の壁ができてしまったわけです。
故に人間は真の意味で互いを理解することができない、というのがキリスト教の主張であり、バベルシティ・グレイスがそのエピソードをベースにした楽曲だからこそ、第二話には『わかるな』という理解したかを確認する台詞が何度も登場するのです。
とはいえ、西暦が始まってから約2000年。
共通言語がこの世界から失われて久しい現代において、初対面の人間同士が『わかるな』の一言で理解し合うのはなかなかに難しいことで。
ですが、最後の『わかるな』だけは別なのです。
彼女達が自分達のウタがどのようなものかを理解したからこそ、そして、監督に彼女達の熱が伝播したからこそ、あのシーンだけは「わかるな」の一言で真意が十二分に伝わったわけです。
同じ言語を使っていたとしても真に互いを理解することができないこの世界において、詳しい説明もなしに伝わったのです。
だって彼らの胸には同じ熱があるのですから。
さて、この描写の何が凄いのかというと、例え聖書の知識がなくともアンティーカが何を「わかった」のか、視聴者の我々にもちゃんと理解できるという点です。
当たり前といえば当たり前なのですが、こういうのって場合によっては頭でっかちでわかりにくいお話になってしまうわけで(もちろん、それが魅力に繋がる作品もあるにはありますが)。
しかも、その上で第二話は劇中劇が挟まっている。
キリスト教の込み入った知識がなくとも理解できる形に落とし込んでいる上に、劇中劇という本編とは別のお話まで組み込んでいるわけです。
なのに全然詰め詰めに感じない。それどころか全ての要素がストーリーライン上に綺麗に配置されているまである。
だからこそ、劇場版のシャニアニを全通した身としては、第二話が構成的に一番綺麗な回だったと思うわけです。
後書き
以上が、シャニアニ第二話『ウタという炎』の個人的なります。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
先述したように、個人的にはこの第二話が一番構成的にも綺麗だと思っています(次点は第十話でしょうか)。
だからこそ、この美しさが知られずにいるのは耐え難く、この記事を書くに至りました。
まぁ公式から明確なアンサーがない以上、この手の解釈は基本的に妄言妄想の類なわけですが……とはいえ、この記事を読んでくださった方々にもっとシャニアニの魅力が伝わってくれると嬉しいです。
改めて、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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