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春は戻らない

その日が来たら死のうって、そう思っていた瞬間はあっさりと訪れた。

「好きな人ができたの」

私が大切に大切に、世の中のいやなものから守ってきたはずの彼女はいつもの柔らかい笑い方でそう言った。奥二重でまつ毛がすごく長くて、笑うと黒目がちになる。私の大好きな表情で、可愛いこの子は世界の終わりを教えてくれる。

手を離したのは私のほうだった。あの子を守るだけの私をやめたくて、地元から離れた大学に進学を決めた。それなのに、彼女の一言でおかしいほど気持ちが乱される。

彼女はずっと、のんびりした話し方をする子だった。人に合わせるということをしないのに疎まれないで済んだのは、すこし馬鹿なふりをするのがうまいから。「この子は天然だから」って私がフォローしておけば、ほかの女の子たちはそれ以上近づかない。すうっと、私と彼女のまわりに境界を引くみたいに。そうやって二人組でいられることが、私にとっては大切だった。過去形になってしまったあれこれが、私の頭の中をぐるぐる回る。

私たちが女子高生ではなくなってからはじめての夏になっていた。春の間は忘れていたことだけど、私は彼女といるときに、どんどん私ではなくなっていく気がする。彼女の望んでいるであろうこと、求めていることを予想して、私の中の彼女に従ってあれこれを問いかける。たとえ私が知りたくないことでも。能面みたいな表情で口ばっかり動かしている、おせっかいな魔法の鏡。冷房のききすぎた賑やかなカフェのテーブルで、私はいつになく饒舌になる。

彼女が自分を許したのは、初めてホテルに行く日にスタミナ定食を食べるような男だった。まじ? と大げさに笑うと、彼女はきょとんとして「合理的じゃない?」などと言う。二人とも事に及ぶのは初めてで、タイミングが掴めずにしばらくはゲームに興じたこと(ニンテンドー64なんて、よくもまあ現役で残っていたものだ)、一緒にお風呂に入ったのに、もう一度脱いだ服を着直したこと(「バスローブってなんかおかしくって」とのこと)。彼女が過ごした一日を追いかけて、一緒になにかをうしなっていく。

「べつに痛くはなかったし、血も出なかったよ」

彼女は淡々と告げてにっこり笑う。おしまい! と手を鳴らしたので、気づかないうちに私は質問をしすぎていたみたいだ。にんにくくさいキスをしながら睦み合う二人のシルエットが頭の中をゆらめいて、私はおしぼりの袋を細長く裂く。細く細く、もうそれ以上はちぎれないところまで。

彼女が男の人をすきになったら、きっとつまらない女になって、その他に埋もれてしまうって、そんなふうに思っていた。けれど目の前の彼女は、なにも変わらないように見えた。「変わらないね」と思わず呟くと「まだ卒業したばっかりだよ」と的外れなことを言う。「それでももう制服は着られないかなぁ」茶色く脱色した髪をつまんで、不良になったきもち、と目元をほころばせる。私たちの学校は、とても校則が厳しかった。

窓の外は景色が白っぽく見えるほど眩しい。食べかけのオムライスは半分から先に進めないまま、大きな皿の上でゆっくり冷めていく。あと少し、もう少し沈黙をやり過ごしたら、死ねない私は魔法の鏡に戻るだろう。

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