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さよならベイビー

「るうちゃん。ごきげんようって、言って?」

言いながら姉は、こころもち首を傾ける。玄関を開けてすぐ、目に飛び込んだ姉の姿に動じ、背負ったラケットバッグがちいさく跳ねた。高校を出てすぐに家を出た姉は、しばらく顔を見せない間にすこし肉づきがよくなっている。微笑んで高くなった頬が、光を抱いたようにほの明るく見える。こんなふうにして、恥じらいもせず百点の笑顔を見せられるのは、自分がきれいだと知っているからだ。

姉がわたしの姉になったのは、五年前のことだった。病死した父とは違い、恰幅がよくてばかに明るい笑顔を貼り付けた「あたらしいパパ」の、娘。セーラー服を着た姉はほっそりとして、それがひどく大人びて見えた。るうちゃんこれからよろしくね、と言いながらあのときも、いまのように首を傾げてみせた。

あの日姉の着ていたセーラー服は、姉の卒業後同じ高校に入ったわたしに引き継がれている。けれど、わたしはほとんど制服を着ない。朝練から放課後の部活まで、ずっとジャージで通してしまうから。登下校は制服を着用するきまりがあるけれど、わたしの朝は早く夜は遅いから、門に立つうるさい先生はいつもいない。

最近筋肉がついたせいか、制服を着ると息苦しく感じてしまう。自分に合わない制服は、いつまでもわたしのものにならないみたい。

「なんで」
「学校で言われない? ご挨拶はごきげんようって」

わたしの「なんで」は姉がここにいる理由を尋ねるものだったけど、返答と受け取ったらしい姉はほの明るい笑みを浮かべたままで続けた。わたしたちの学校は古めかしい女子校。校門の出入りは一礼すること。挨拶の言葉はごきげんよう。色んなルールが遺跡みたいにあるけれど、誰も守っているひとはいない。

「もったいない」

姉は肩をすくめる。

「先生は教えてくださらないの? とても素敵な言葉なのに」
「なんで、ここに、いるの」

二度目の問いかけを無視して、姉は話し続ける。

「さようなら、は『左様ならば』、お別れですか、そうならば仕方ありませんね……って諦めの気持ちなの。だけど、ごきげんようは違う」

話しながら歩く姉につられる格好で、リビングへと入っていく。母は買い物に出かけているらしく、いつも点きっぱなしのテレビが消えていてとてもしずか。

「ごきげんようは『ご機嫌良う』、お別れだけど、お互い機嫌良くやっていきましょうね……ほら、あかるくてさっぱりしてる」
「まほちゃん、なんでここにいるの」

ミルクパンで牛乳を温めるきっと、ミルクティーを淹れてくれるつもりの姉は、名前を呼んでやっと視線を上げる。

「うちにいちゃ、いけない?」

ふわりとほころんだ表情で、目だけがどこか挑戦的に光って見える。
一度だけ、姉の涙をみたことがある。夏の終わりかけ。中学に入って始めたテニスで、二年目にしてやっとレギュラーに入れるかどうかという時で、あの頃のわたしはいつもおそくまでコートにかじりついていた。

帰り道は疲れきっていて、それでもやりきった充実感とたしかに感じられる上達の手応えにすっかり気を良くしたままで、昼の熱を残したコンクリートみたいに身体じゅうを火照らせていた。

そのひとには気配がなかった。気づいたら目の前に立っていて、そのひとの周りだけちがう空気が流れているように景色から浮かんでみえた。それはそのひとの息遣いが普通のそれと違うことや、下半身の服を下着ごと足の半分くらいまで下げていたことのせいだけではなくて、なにか根本的な部分が歪んでしまったもの、わたしの世界のエラーとしてそこにいた。

そのひとの目が、半分開いた口が、わたしのからだに向けられている。運動に悦び、健康に汗ばんだわたしのからだ。

わたしの目はつくりものになったみたいに、そのひとから逸らせなくなった。名前の知らないたべものを押し込まれたような、困惑と小さな吐き気がおそう。助けを呼ばなくちゃ、でもどうして? 見たくないものを見せられること、見られたくないかたちで見られてしまうこと。それがわたしのなにを損なってしまうのか、うまくわからずにいたわたしは子どもだったんだ。

「るうちゃん」

わたしをエラーから救い出してくれたのは姉の声だった。
まほちゃんだ、とわたしが思ったのと、姉がわたしの置かれた状況に気づいたのとは、ほぼ同時だったのだと思う。それなのに、へんな世界に飲まれかけていたわたしは頭のなかがひどくゆっくりになっていた。

姉が持っていたサブバッグをそのひとの近くに投げつけて、逃げ出したそのひとの脚がもつれて倒れこんだのを。姉がそのひとの背中に馬乗りになったのを。姉がカバンを何度も、何度も、男のうしろあたまめがけて打ち下ろしたのを。ひとつひとつ、わたしは見ていて、その間ずっと、まほちゃんだ、と思っているだけだったのだから。

うちに帰ってから姉はもどかしそうにローファーを脱ぎ、ボタンも外さないままカーディガンとセーラー服を頭から脱いだ。はだかの背中のまんなかを、藍色の下着が横切っている。背骨の溝を沿って汗がすべり落ちてゆく、それがひどくゆっくりと見えた。低くひとつに結んだ髪が乱れたのもお構いなしに、スカートを下ろし靴下もすっかり脱いでしまう。

下着姿になって、それでも興奮がおさまらないのか細い肩はいつまでも上下して、荒い息とちぐはぐな細い声が、ヒ、ヒ、と短く漏れていた。

「まほちゃん」

でくのぼうみたいに突っ立ったままだったわたしが声を出した時、姉はブラのホックにまわしていた手を止めた。ゆっくりと振り返ったあの時の姉の目も、今日のように光っていたのではなかったか。

「るうちゃん」

藍色の下着。その上下だけ身につけた姉の、ふるえる指がわたしの頬に伸びる。ためらうように宙を掻き、ごめんね、と呟いて引っ込んだ。姉の目に涙がたまるのを、わたしが見たのはその一度きり。

姉の脱ぎ捨てたものたちは次の朝、ゴミ袋にまとめて捨てられた。カバンとローファーは買い直したけれど、すぐに衣替えが来たから夏服は買わずじまいになった。予備の夏服は着古してしまったから、姉からのお下がりには夏服がない。

「きょうは報告に帰ってきたの」

あの日、わたしに伸ばしたその白い手で、姉は自分の下腹部をさすってみせた。

「私がね、正しい女になったことを、パパや母さんにも教えてあげなくちゃ」

ミルクティーのカップが置かれ、甘く匂い立つ。姉の言う「正しさ」がどういうものなのか、わたしにはよくわからない。

「あの言葉の良いところはもうひとつ、出会ったときにも使えることね。ね、るうちゃん、私じゃなくてこの子に、言って? ほら」

しろくてつめたい、姉の手はいまは迷わずわたしの手首をつかむ。そのまま姉の腹部へと。柔らかさの奥に、ほんのすこしかたい、それ以上触れることをためらうようにたしかな存在がある。わたしの手から姉のなかにいるだれかへと、伝わるものはあるのだろうか。

促されて呟くその言葉は、言い慣れてないせいであかるくもさっぱりとも響かない。ひどく平坦に、ひとりごとのように転がり出たそれを、胸のうちでわたしは別の言葉に言いなおす。

ごきげんよう(さようなら)

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