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ローリン・ガールズ

「ここでしたか」

まだ五月だというのに、この土地はもう夏の盛りみたいに暑い。東京とは違う、どこか軽い風に制服の裾をはためかせ、彼女は重い扉の奥へと足を踏み入れた。班行動をとらない彼女を、咎めるものは誰もいない。
建物の中は薄暗く、奥の大きな水槽がゆらめく光を投げている。ここにあの子がいるという予感は、もう確信に変わっていた。

(また会えましたね)

巨大ないきものが、エメラルドグリーンの水槽をまっすぐに横切ってゆく。

「ジュゴン?」
(マナティです)

うふふ、とやわらかく微笑む。なんだかぼってりして、格好悪くて、ごめんなさいね、と。

「悪くないですよ」
(ありがとう)

その鈍重そうな見た目とは裏腹に、あの子であるところのマナティは軽快に泳ぎ回る。

犬だったときはよかった。いっしょに暮らすことができたし、触れ合うこともできた。寿命の違いには苦しんだものの、二十年近く幸せな時間は続いた。

シマウマの時は間に合わなかった。見つけたころにはもうあの子の寿命が迫っていて、飼育員になる暇もなく毎日毎日おなじ動物園に通い詰めた。
もう一回、次こそはと、何度繰り返してもうまくはいかなくて、だんだんとあの子は大きく変わってゆく。

そして彼女にとってもちろんあの子にとっても認めたくないことだけれど、距離がどんどん遠ざかっていた。

「こんどは外国かな」
(でもきっとまた、会えますね)

うふふ、と笑うのは諦めか、それとも楽しんでいるだけか。彼女は水槽に手をつきながら、人だったときもこうだった、と思い返す。
本音がわからない。ちゃんと言わない。だから彼女だけ先走って、不安になって、そのたびにあの子に囚われる。終わりのないような巡りの中で、不信を押し殺す努力はとうに潰えている。

「探しませんよ、もう」
(探してくれないんですか)

重い扉が絨毯に擦れる音と、賑やかな話し声が建物の中になだれ込む。彼女とおなじ制服を着た女の子たちのグループが、水槽の前の低い手すりへと押し寄せる。


さようならと、唇だけを動かして彼女が背を向けた。あの子であるところのマナティは、賑やかな女の子たちの視線を浴びながら悠然とエメラルドグリーンの水中を動き回っている。もう彼女に語りかけてはこない。それが無性にさびしくて、気を引きそこねたいたずらっ子のような、不思議な情けなさが切なくて、彼女は恨めしげに振り返る。

丸い尻尾で水を押し下げて、マナティはゆっくりと浮上する。水面を通った光が、ずっしりとした体躯にゆらめく模様を描き出している。女の子たちのはしゃぐ声は、彼女の耳に入らない。水面にわずかに鼻を出してから、マナティはまた深く水槽の中へと身を沈める。無数の小さな泡がからだのうえをすべって浮き上がる。光と泡と水面の影が、せわしなくあの子を取り巻いて離さない。

彼女は呼吸を忘れ、また思う。何度あたらしく生まれても、あの子はちっとも変わらない。


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