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プリズム

きょうが晴れていなければいいのにと願いながら、屋上までの薄暗い階段を上る。教室は一面が大きな窓になっているけれど、日焼けを嫌う子が多いから厚ぼったいカーテンはいつも閉ざされている。静まり返った授業中よりも、賑やかな昼休みの方が息苦しく感じてしまうのはどうしてだろう。そして、そんな教室から連れ出してくれる彼女が望んでいる通りの晴れ間を、私が期待できないのはどうしてだろう。今日が晴れていなければいいのに。

耳の奥を掻くような、不快な音を立ててドアが開く。ノブを引いて、重たいドアに顔を押し付けるような格好になった彼女よりも一瞬早く、私の目は漏れてくる明るい光を確かめる。

「めっちゃいい天気」

満足げな声を漏らして、彼女は一目散に進んでゆく。まっすぐ行った突き当り、その柵に身を乗り出すようにすると、グラウンドがよく見える。

屋上は特別な場所ではなかった。そこは普段から生徒にも開放されていて、たとえば今日みたいな日は何組も先客がいる。足元が埃っぽいので、お弁当を広げる子はあまりいないけれど、なんとなくやってきてはおしゃべりをしたり、ただ外の空気を吸ったりする。

そして、部活によっては昼練の場所として使うこともある。放送部や演劇部、百人一首部(の読み手)といった発声を大切にする人たちが、青空に向けて声を張り上げる。私と彼女も、ほんの少し前まではあの中にいた。

「部長がこっち見てる」

忠告のつもりで言ったのに、彼女はそちらを見ようともせずに「そう」と一言で済ませてしまう。彼女の視線はずっと、グラウンドに釘付けになっている。

彼女と私が、演劇部を正式に辞めたのは先週のことだけど、その少し前からもう部活には顔を出さなくなっていた。いまは秋の演劇祭に向けた練習の真っ最中で、彼女は主役でこそないけれどとても重要な役どころを演じる予定だった。はっきりと言われていたわけではないけれど、演劇祭を終えれば引退する先輩たちは彼女を次の部長にと考えているだろうことは誰が見てもわかった。華やかな容姿というわけではないのに、舞台での彼女は目を引いた。

それはくるくると動く表情の豊かさのせいかもしれないし、間の取り方や何気ない視線の使い方が抜群にうまかったせいかもしれない。それに、彼女は演劇に対して一生懸命だった。誰よりも分厚いメモ帳を持ち歩き、プロの舞台を見る時は、舞台から目を離さないまま手を動かし続けて、感じ取った全部を自分の物にしようとしていた。それでいて、周りにプレッシャーをかけたりおなじくらいの情熱を強いたりするようなことはなく、ただ演劇を好きな自分のために一生懸命でいる彼女には自然と人がついていった。

それなのに、彼女はあっさりと部活を辞めてしまった。彼女に演じてもらえなくなった脚本。それは、私が彼女をイメージして書いたものだった。

「めっちゃカッコええ」

ほう、とため息をつく彼女は、もうメモ帳を持っていない。グラウンドには同じジャージの生徒が何人もいるのに、よく見分けがつくものだと思う。彼女の昼休みは、発声練習でもなく柔軟体操でもなく、まして脚本の読み込みやイメージの擦り合わせなんかではぜんぜんなく、ただ「見る」ことにすべてが費やされている。

「ぜったい先輩と同じ大学行くねん」

興奮を抑えた、湿った声でそう呟く彼女は、私が自分の物語を演じてほしかった彼女とは別人みたいだ。照れくさそうに身じろぎする彼女を、大げさにまねてからだを揺らしてみる。「ぜったぁい、せんぱいとぉ」制服のスカートは重たいから、揺れるとバサバサと風を切って気持ちいい。

「うちそんな変とちゃうしー」

彼女が笑うから、私はますます身振りを大げさにする。そうするとスカートが広がって面白いから、くるっと一周回ってみせる。一瞬、ボーダー柄になって視界を横切る元おなじ部活の仲間たち。彼らの発声が、わたしたちを刺すみたいにまっすぐ向かってくる。アー・エー・イー・ウー・オー。「おなじだいがくう、いくねんっ」わざと両手を上げて、道化ぶってみる。いかにも身勝手で考え無しな、楽しいばっかりのばかみたいに。

ひらいた傘のかたちに、スカートがふくらむ。壊れたように笑う彼女と、いっそう大きくなるアエイウオ。いつまでも手を上げているのは変だから、腕を下ろそうと思うのに回り続けている限り腰から下へは手が下りない。へんなのー、と声に出したところでバランスが崩れて、気付けば宙を仰いでいた。屋上の汚い地面に転がって、背中はすっかりそこにへばりついているはずなのに、いつまでも青空がぐるぐるまわって止まらない。ちょっと助けてよ、転んでるんですけど、と声に出す前にちゃんとわかっている。道化のままでいたところで、彼女の気持ちは戻らない。

昼休みの終わりが近づき、周りの生徒たちは続々と教室へ引き揚げていく。今日も放課後になると、演劇部では私の書いた脚本が、彼女ではない誰かを加えて演じられるだろう。

急に吐き気がこみ上げてきつく目を閉じた。肌はすっかり汗ばんで、こめかみの横をひとすじ涙が落ちてゆく。つぎに目を開けた時、空はびっくりするほど動かなかった。

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