【ショートショート】四月のさよなら

 四月一日。
 外に広がる景色は温かみを帯びている。固く閉ざされていた桜の蕾は力を抜いて、八割ほど花を開いて世界を彩る。
 僕が窓を開けると、色のない病室に桜の花びらが風に運ばれて飛んできた。
「もっと近くで見たいな」と彼女は言う。
「明日になったら、一緒に見に行こう。今日は調子が良さそうだし」と僕は答える。
 幼馴染の彼女が入院してから、ちょうど半年が経った。病状は一向に良くならず、その病は時間だけを貪り食っていく。ただ、今日の彼女の調子はとても良さそうだった。このまま回復してしまうんじゃないかと思えるくらいで、いつもより笑顔も多い。

「うん。朝から気分がいいよ。今すぐ遊びに出かけられそうなくらい」

 そういって、力こぶを作るように腕を曲げる。元気だった彼女とは比べ物にならないくらいに、色白く、か細い腕がチラリと見えた。

「桜は逃げないから、今日は安静にしてよう。そうすれば明日も大丈夫さ」

 僕は平静を装いながら言う。内心、明日実行しようと思っていることで頭がいっぱいで、それどころではない。

 ――僕は明日、彼女に告白しようと思う。

 今日の彼女の様子を見ていて、いままでずっと内に秘めいていた気持ちを伝えようと覚悟することができた。
 正直、いまにも心臓が飛び出してしまいそうだ。十年近く一緒に過ごしてきた彼女に思いをぶつけるのだから。もし断られたらどうしよう。僕たちの関係が崩れてしまうのではないか。そんなネガティブな考えが僕をギリギリと締め付けようとしてくる。
 ただの自己満足なのかもしれない。でも、伝えなければいけないのだ。僕の本当の気持ちを。
 突然、彼女が「そうだ」と声を上げる。

「もしも、もしもだよ? 私になにかあったら、」

「それ以上は言わないで」

 僕は彼女の言葉を遮る。
 いままでこんなことを言うことはなかったのに、急な話で全身の血の気が引いていった。

「そんなこと言わないでくれよ。この前はすぐに良くなるって言ったじゃないか」

「ごめん。でも、これだけは伝えておかなきゃって考えてたの」

 彼女は悲しげな笑顔でそう答えた。
 僕の頭に、最悪の結末が過ぎった。

「……死なないよね?」

 こんな状況に半年も身を置けば、自身の死を想像してしまうのも無理ないだろう。けれど、そんな話は聞きたくなかった。彼女の口から、死を彷彿とさせる台詞が出てほしくなかった。

「うん。死なないよ」

 彼女は満面の笑みで、そう言った。

 * * *

 四月二日。
 彼女が死んだ。
 遺体は霊安室に運び込まれていて、横たわる誰かの顔に白い布が被されていた。それをめくる勇気が出ずにしばらく立ち尽くしていたが、これは彼女ではないと思い込むことで布をめくる決心ができた。
 しかし、そんな訳があるはずもなく、そこにはよく知る彼女が眠るように目を閉ざしていた。
 全身から力が抜け、その場にへたり込む。僕の頭は真っ白になった。世界から色が失われていき、視界にはモノクロが広がっていく。現実だけが、はっきりと目の前に突きつけられた。
 今日は桜を見る約束をしたじゃないか。
 空は晴れていて、絶好の花見日和だよ。
 お願いだから、目を覚ましてくれ。
 まだ死なないって、言ったじゃないか。

 しばらくして、僕は霊安室をあとにした。
 濁った考えの中、導かれるように彼女のいた病室に向かう。
 ベッドは綺麗に直されていて、すぐにでも新しい患者が入れそうな状態になっている。それに無性に腹が立ち、悲しかった。
 ふと、見覚えのないノートが目に留まった。
 それには、彼女の癖のある字で『日記』と書かれている。
 これを眺めているだけで、息が詰まりそうだった。少しでも息苦しさをなくそうと、病室の窓を開ける。外からは暖かい風がふわりと舞い込んできた。
 駆り立てられるように日記のページをめくる。そこには彼女の日常があった。
 ほとんどのページには僕との会話が記されている。
 彼女は退屈な僕の話を楽しそうに聞いてくれていた。もともと活発な女の子だったから、入院して退屈な生活が続いていたのに飽き飽きしていたのだろう。唯一、外の世界を知れる僕の話はキラキラと光っているようだった。
 思い出と重ねながら読み進めていく。
 そして最後のページを開く。
 ほかのページよりも少し丁寧に書かれている。

 四月一日。
 明日、桜を一緒に見に行く約束をした。
 心配をかけないように隠していたけど、ついつい言わないようにしてたことを言っちゃった。絶対に心配させたよね。
 やっぱり、優しい彼が好きだな。
 後悔はしたくない。
 明日、勇気を出して告白しようと思う。

 視界がぼやける。黒い斑点が次々に落ちていき、彼女の書いた文字が滲んでいく。
 昨日は死なないって言っていたじゃないか。こんなことなら、優しい嘘なんていらない。ちゃんとお別れをしたかった。ちゃんと想いをぶつけたかった。
 一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に喧嘩して、それから仲直りして。やりたかったことが多すぎて、時間が足りないよ。
 突然、強い風が病室の中に吹き込んできた。
 たくさんの桜の花びらが宙を舞い、僕の手元にひらひらと飛んでくる。
 彼女がごめんねと言っているように感じた。
 ふと、僕は気づいた、

 ――昨日はエイプリルフールだったな。

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