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#55 慶應小論文③文学部

 以下のAとBの文章は、池澤夏樹(編)小論集『本は、これから』に収められた2編である。文章を読んで、設問に答えなさい。(90分)

問1 2人の著者の、書籍の電子化に対する考え方の共通点を、300字以上360字以内で説明しなさい。
問2 あなた自身のこれまでの読書経験を踏まえた上で、本の将来像について、320字以上400字以内で論じなさい。

スライド8


 iPadを手にして1週間もしないうちに、電子書籍や新聞に馴染んでいる自分を見出した。読書生活のすべてを電子書籍に託そうとは思わないが、一般的な読書を楽しむことぐらいはできそうだ。私の著述家としての必要性からも欲しいのは、数冊の本を同時に参照できる機能だが、これはパソコンを併用するなりして解決するほかはないだろう。
 意外だったのは、古典や名著が予想以上に読めることだった。「青空文庫」で鷗外の『ヰタ・セクスアリス』や漱石の『明暗』、太宰治の『斜陽』、中島敦の『李陵』が読めることは知っていたが、いつの間にか夢野久作の『ドグラ・マグラ』や小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』の範囲にまで及んでいるとは知らなかった。当然ながら、海外の書 籍(洋書)の中に含まれている古典的名作は、むかし『世界の文学』など全集本で親しまれたような作家なら、iBooksやKindleを通じて、ほとんどすべてが無料でダウンロードできる。英文学ならシェイクスピア、デフォー、フィールディング、オースティン、サミュエル・ジョンソンなどはいうに及ばず、怪奇幻想小説やファンタジー系の名作など、マニアックな分野までカバーしている。この網羅性を、今後日本の出版社が追随するには、相当な努力を要することだろう。
 学生時代、洋書の入手難に悩まされたことを思い出しつつ、夢中でダウンロードしまくったところ、Kindleから上顧客と判断されたのか、新刊案内のメールが届くようになったので、話題のマイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』の原書を購入してみたが、検索の過程でいかに"justice"という語義を含む本がたくさん出ているかを知り、日米の比較文化史的な考察に誘われたりした。 電子読書の効用といえようか。
 新聞・雑誌については、国内勢に関する限り試験的段階だが、私には紙誌面をそのまま再現する方式が素朴なりに親しみやすい。これは新聞本来のレイアウトにより、アナログ的に記事の軽重が判断でき、社の主張や個性をも感じ取ることができるからだろう。無理に全記事をデータ化し、整然と並べ替えてしまうと、無個性で断片的な情報となってしまう。
 使ってみないとわからないことを実感したのは写真だった。それも「USA TODAY」や「ガーディアン」のような海外ジャーナリズムのリアルな報道写真である。iPad上で見る限りは発色の美しさも手伝って、リアルに世界の鼓動を伝えてくれる。写真ジャーナリズムの分野は活字よりも有望かもしれない。写真家のアルバムも、大判で高価な紙の本に比して敷居が低く感じられる。新しい媒体としての魅力がある。
 概ねこのようなデジタル読書の世界だが、感心ばかりしてはいられない。私も著述家である以上、紙の本の形で刊行した作品を電子書籍として残したいという思いに駆られたとしても、ふしぎではないだろう。しかし、単なる電子復刊でなく、電子書籍化に意義のあるものとなると、ことは簡単ではない。
 一体に電子書籍をめぐる議論は、出版産業全体への危機感にはじまり、デジタル化に伴う著作権問題、編集者不要論から、ついには既存の出版界を全否定するような意見までが飛び交い、錯綜をきわめている。このような状態では、書物の未来がどうなるのか、電子書籍が支配的となった暁、現在よりも創造的な内容の出版物が増え、懸案の活字離れ解消にまで至るのかというような、根本的な議論にまで到達することはむずかしそうだ。
 電子書籍の影響力ということで忘れがちとなるのは、紙の本に対する各人のイメージに、かなりの相違があるということだ。考える読書を重視する人があるかと思えば、消暇的な読書しか興味のない人もいる。近代洋画壇の先駆岸田劉生が、おそらく日常の緊張感から逃れるためか、年中講談本に親しんでいたことはよく知られている。このほか世代によっても、本のイメージが大きく異なることを忘れてはなるまい。あえて私の場合をいえば、消費的な本ばかりでなく、今日の問題をわかりやすく、深く掘り下げた学術書、文学や思想に関する体系的な叢書などが出版されないと、電子出版といえども期待できないような気がする。 本を愛する者の1人として、何が何でも電子本ということではなく、紙の本に匹敵するか、それを超える出版を実現して欲しいと思うのは私だけではないだろう。
 もう1つ気になることは、アメリカ資本の攻勢に対し、おしなべて日本側の対応が鈍く、受け身に終始しているように思えることだ。出版社、印刷所、書店、図書館、著作者などの利害が複雑にからみ合っている事情はわかるが、それにしても巨大規模の知的財産のデジタル化が、近年急速に加速していることについての認識が甘かったのではあるまいか。
 元来、日本は図書館や蔵書機関の書誌データ、あるいは総合的な出版目録などを作成し、効率的に運用することに不熱心であった。コンピューター時代に入ってから、先進各国にひけをとらないシステムも生まれているとはいえ、社会的にはこの種の事業への理解に乏しく、および腰であることは否定できない。これに反してグーグルやヤフーの書誌検索システムや著作権獲得の動きなどは、おどろくべき計画性と執念に裏打ちされているように見える。「黒船到来」というよりも、元来西欧文化史の根底に遺伝子のように見え隠れする「全世界図書館への情熱」と関係があるのではないか、とさえ思ってしまう。
 いまさら古代エジプトのアレクサンドリア図書館が、世界中の文献収集を目的として70万巻の書籍を所蔵していたという話や、16世紀のコンラート・ゲスナーが若くして人類の全知識を体系化しようと志し、当時までに刊行されたギリシア語、ラテン語、ヘブライ語の全出版物1万5千点の世界書誌を完成、書誌学の父と呼ばれた例などをあげようとは思わない。とりあえず、西欧には知識の媒体である書籍を、量にはたじろぐことなく、精力的、網羅的に集める発想が存在し、そのことが、日本および東アジアに先駆けて近代的な図書館や教育機関などの発達を促す一因となったということを指摘するだけにとどめよう。ボルヘスの短篇『バベルの図書館』には、無限大の、一個の天体に匹敵する図書館が描かれるが、その幾何学的ともいえる 正確な描写にも、西欧の知識人の根底にある宇宙図書館への限りない関心と情熱が存在するような気がしてならない。
 それがアメリカの一企業によって展開されている、電子的手段による営利的な本の取り込み作業と、何の関係があるのかという反論も出てこようが、好むと好まざるとにかかわらず、情報のグローバル化が進行している時代に世界図書館の構想が出現するのは、じつは時間の問題だったといえないだろうか。そして、政治・経済の現実から見れば、その種の作業が国家的・公共的事業として実現することはあり得ないのも、また確かなことだったのである。
 いま電子書籍の時代を迎え、出版業界は一様に不安をかかえている。著作者も明確な結論を出せる段階にないといえるが、1つ確実なことは、現在の紙の本の水準をそのまま電子書籍に移行しただけでは単なる電子的複製というにとどまり、一見多様に見える論議も内向きの権益保護のためでしかなく、新しい書物文化創造にはつながるまいということだ。
 いいかえれば、自ら外へ飛び出して創造の場を求め、広く世界の読者を相手にしていくという発想が絶無なのである。書籍の場合は日本語の制約を意識しすぎて、狭い国内マーケットしか念頭にない。このような状況を改善しようと、たとえば国際交流基金は、十数年来、日本の出版物を紹介する海外向けニューズレター"Japanese Books News"を 刊行し続けているが、私が寄稿をした初期には、日本の著者名や作品名に触れる際、「日本人のあいだで俳人として尊敬されている正岡子規は……」とか「日本の東北地方である岩手県出身の詩人で『雨ニモマケズ』という代表作のある宮沢賢治は……」という具合に、徹頭徹尾初歩的ガイドとしての配慮が必要で、書評どころではなかった。ことほどさように、翻訳出版に関しては日本は情けないほどの入超国なのだ。出版物の水準は高く多様性にも富んでいると思うが、コミック以外は海外に販路を持たず、自家消費を繰り返している。
 私は電子書籍化の動きすべてに同意するのではないが、反発ばかりでは能がないと思っている。日本の出版界の先細りは、知識情報の獲得手段が書籍だけではなくなっていること、物流も時代に適合せず、さらに少子高齢化など構造的な変化による市場の縮小に一因があることも、すでに論じられている通りである。その解決法の1つが海外市場への進出であることは自明で、この機会に真剣に検討し直すべき課題ではないだろうか。
 電子化を奇貨として、日本の書籍を何らかの程度に国際商品へと衣替えしようという出版人や著作者は現れないものか。考えてみれば、まさに電子書籍こそ日本文化を発信し、日本の書籍の魅力や優秀性を売り込むための願ってもない武器であるはずだ。従来、日本書籍の国際的なマーケットといえば、フジヤマ、ゲイシャのイメージに限られていたが、いまや文学や芸術、コミックなどの分野において、十分に力量もあり商品価値のあるものも現れている。紙の本では原価計算や物流上の制約が壁となっていたが、電子出版を前提すれば、不可能ということではあるまい。世界につながらない電子化なんて、逆説としても通用しない。これからの本が「どうなる」ではなく、「どうする」という意志がなければ、本の世界は何も変わらないだろう。
紀田順一郎 1935年生。評論家・作家。


 この本のテーマは、これからの本は、どういう姿になるのかと、これまでの本は、どんな運命をたどることになるのかという、たぶん2つの問いかけを含むのだと思う。
 前者の問いかけに対しては、私など何の答えも示し得ないし、できることならこれまで通りであってほしいと思うだけである。しかし先日、愚息にiPadなるものを見せられて正直直観した。なるほど、これからはこの方向に向かわざるを得まい。少なくとも読書の習慣が万人の知的要求に沿ったものである限り、一旦出来てしまった以上、この方向が大勢を占めることになるのは抗いようのないことと思う。今はまだ揺籃期ではあろうが、瞬く間にそこに生じる諸々の問題は、たぶんより便利な、そしておそらくはよりよい方向へ進むであろうこと疑いようはない。人間もまだそのくらいの智恵は十二分に働かせ得る生き物であることは信じてもよかろう。
 これに近い変革を、我々は既に四世紀も前に写本から板本へという形で曲りなりにも経験済みであり、1世紀半前には板本から活版へというさらなる経験をつんだ。ただしそれはいずれも書記することから、木版であれ活版であれ、印刷することという、手仕事の範囲での技術の転換であり、本という実体そのものは変らなかったし、今回の電子書籍のような、物としての本がなくなるという根本的転換では なかったことも承知してはいるが、そこで唯一心配なのは、その転換があまりに急速に行なわれることへの一抹の危惧である。商業主義ベースの急激な進展は、必ず残すべきものの判断を見誤らざるを得ないのではないか。そうであればあるほど、それはできる限りゆっくりとした動きの中でしか判断できないはずなのである。かつての転換は、少なくとも3世紀という長い時間をかけて、写本と板本とがゆっくりとした共生の時間を紡ぐことによって、ほとんど異和感も生ずることなく、したがってオリジナルとコピーとの間の価値観の変動もほとんどなく、乗りこえられた。人間の良智良能はそうした形でしか発動できないものであるらしい。
 とにかく転換は必至であるとして、3世紀とまでは言わぬが、できうる限りの時間をかけること、願いはその1点のみである。物としての本の有意義性を十分心得ている我々の世代まではまだよかろう。しかし電子書籍しか知らぬ世代になった時、果してどんな知性が育まれることになるのか、空恐ろしい思いをもつのは私独りだろうか。ともかく共生の時間をできるだけ長くもってほしい。
 次の問いかけ、これまでの本はどうなるのか。
 それにも少なくとも2段階が考えられる。即ち著作権・版権の切れた本と、切れていない本の問題である。後者についてはしかるべく有識者の相談を重ねていただくしかないので、私などの出る幕ではない。前者の、それも明治以降のいわゆる活版本については、乱暴な言い方であることを承知の上で言えば、デバイスに取りとめるだけどんどん取りこめばよい。スキャンの技術はそれこそ日進月歩であろうから、全部といってもそれほど手間も時間もかかるまい。ただし、その、物としての原姿・原型は丁重に図書館・美術館・資料館・研究所・有識者等において整理、保管し、いつでも要求に応じてその容姿・手触りを確かめ得るような配慮は必須であろう。現物としての重要度がより一層上ることは、これまた必至である。
 問題はそれ以前の木版本、及び写本類である。これが過去1200年の間に積み上げられた日本人の経験と思弁の総体であることは言うまでもないが、その総数の確認の目安はある。岩波書店編纂の『図書総目録』は明治以前の日本人著作物の総所在目録を50音順に並記したものであり、一応50万点と数えられている。当然それに洩れたものも多いので、大方、100万点を越すと考えて誤るまい。国家的事業として、それを取りこむことは、予算と時間さえあれば、それほど問題はなかろうが、本当の問題は、誰がそれを読むのかという所にある。
 知っての通り、この書物群は、楷書体の漢文著作以外はすべて、変体仮名と草書体漢字、即ち〝くずし字〟によって記されている。出版物が現在のような仮名字体に定められたのは、明治33年に、一音節を一文字に限定した小学校令が施行されて以来のことで、よほど特殊なものでない限り、活字体の漢字と右の仮名文字で記され、くずし字は手書きの場合のみとなった。それでも昭和戦前までの教育を受けた人には、自然とその能力(これを私は「和本リテラシー」と呼ぶ)は残っていたが、決定的にそれを失ったのは戦後のことなので、まだせいぜい65年ほどにしかならないのに、今や大学院を出た人でも、国文・国語・国史といった学科の、それも近世以前を専攻する人のみが辛うじて具えるのみで、それ以外はほとんど壊滅状態といえる。むろん字体を限定したことによるメリットの大きさは十分わかるが、そのデメリットに関してはほとんど一顧だに与えられなかったのではないか。
 ところで電子書籍に明治以前の書物を取りこむ場合、写本であれ木版本であれ、まずは原本をそのままスキャンしてというのが常識であろうが、前述した事情にてらせば、それではほとんど誰も読めないことになる。これまた確認はできないが、和本リテラシーをもつ人の総数は、前述の専攻に因んだ研究者とその卵を数えあげたとしても、おそらく3000人を少し越えるほどの数であろう。日本人の0.003%にしかならない。そこで、既に活字化された書物だけでもということになれば、その総数は歴史・芸術・思想・社会・文芸、ともかくあらゆる領域を総ざらいしてみても、おそらく1万点には及ぶまい。総数を100万点として、わずか1%にしかならないのである。
 日本の知識人で古典は必要ないと言いきれる人はおそらくあるまい。そして、そうした人達はおそらく、必要な古典はほとんど活字化されているにちがいないと思いこんでいるのではないか。しかしそれ以外の活字化されないものは読めないとなれば、実際の所、日本の知識人の大半は、先人の知的遺産のわずか1%しか利用していないことになる。これほどもったいないことがほかにあろうか。
 ただし、明治以降の先人が責任をもって選んでくれた古典を活字で読めるのなら、それで十分ではないかという考え方もあるのかもしれぬ。しかしこれまで活字化された古典はといえば、根本的には近代主義の名のもとに意味づけられ、必要とされた書籍であることは当然であろう。その近代に明確な疑問符がつき始めた今日、必要なパラダイム・シフトが、近代主義で選ばれた古典を読むだけで、本当に大丈夫なのか。鍵はむしろ残りの99%にひそんでいると思うのが常識なのではないだろうか。その99%を読めるのが、何と国民の0.003%しかいないという、何とも凄まじい文化状況が出現してしまっているのである。
 99%全部を活字化した上で電子書籍化するのは、たぶん夢物語であろう。それよりは、今は読めずとも、とにかく全部を原本のままに取りこむ方がまだ早い。ことはどうしても公的機関の出番であろう。例えば国文学研究資料館など、館を挙げて変な選択基準などを考えず、片っ端から取りこめばよい。その上で並行して、文化行政を1から考え直し、小学生に英語を教える傍らで、せめて1時間でもくずし字の勉強をさせるようにしたら如何いかがなものか。むろんそれらの学童が本当に古典を読む必要性に目覚めるのは、なお10年ほども後の事にはなるだろうが、小学生の時に覚えた文字は、志さえもてば思い出すのもそれほど困難なことではなかろう。早い話がアメリカの小学生で18世紀の「独立宣言」をそのままで読めない子供はいないだろうが、日本の知識人でたかだか140年前の福沢の『学問のすゝめ』を、刊行された姿のままで読める人が何人いるだろうか。古典を活字で読むということは、つきつめれば〝翻訳〟で読むことにしかならぬはずである。外国語の習得は、空間的な他者の存在と意見を知るための営為として、その必要性は十二分に認めるが、くずし字の勉強はその10分の1の努力で十分であり、さらには時間軸を遡って、他ならぬ先祖という他者の意見に直に触れる、唯一良のルートを見つけることなのである。
 これまで、私は事あるごとに〝物としての本〟を理解することを重要事として論じてきた。ただしそれは結局の所、前述した3000人を対象としていたにすぎない。せめて その範囲の人には先人の生活と意見のすべてを曲りなりにも〝翻訳〟ではなく、直に感得するための無二の方法になり得ると信じていたからである。
 今後、和本リテラシーの回復に成功すれば3000人は一挙 に1億3千万になり、電子書籍はそれらの人々に先人の叡智のすべてを公開することになる。〝物としての本〟の理解は、その上のこととしても別にかまうことはない。もちろんその時まで〝物〟を電子情報としてだけではなく、具体的に立派に保存・整理する義務は当然のことであり、また、電子化してこそ、その義務はより明確に意識されるようになるだろう。読めないがゆえに、毎日、反故となって廃棄され続ける運命にある和本(この辺りはもう少し詳しい事情の説明が必要であろうが、本稿ではその余裕がない)は、その時ようやくその運命からまぬがれることができる。電子書籍はそのための福音のように感じられるこの頃である。
中野三敏 1935年生。近世文学研究者。

【解答例】

問1
 AとBの著者は共に電子書籍の急速な広がりに対して若干の危機感を持ちながら、しかし、それ以上に未来への可能性のほうに大きく期待を寄せている。
 まずAの筆者は、電子書籍を「新しい書物文化創造につながる」ものと捉えており、今後は「世界の読者を相手にしていく」ものとみている。そして電子書籍は「日本文化を発信し、日本の書籍の魅力や優秀性を売り込む」ものと考えている。またBの筆者は、和本リテラシーを持つ人々には、電子書籍が活字化されていない古典の中の「先人の叡智」をすべて公開してくれると考えている。
 これらはどちらも国内外の違いはあるにせよ、電子書籍による読者層の増加と拡大を論じている。そして、内容の方向性の違いはあるにせよ、日本独自の知性や感性の広がりを予見している。(331字)
問2
 これからの本は、消費を目的としたものと所有を目的としたものとで、形態が二極化していくように思う。
 具体的には、読んだら捨てる雑誌などは、そのほとんどが電子書籍に変わると思う。なぜなら、そのほうが所持するわずらわしさと捨てる手間が省けて楽だからだ。そして、その合理的な感覚は、程度の差こそあれ、一般書籍にも及ぶだろう。しかし、だからこそ、紙の本には価値が出てくるように思う。物質化する必要がないからこそ、逆説的に紙という物質の品質は上がる。少なくとも私はそう感じる。現在様々な形で趣向を凝らした本や本屋は多い。装丁やレイアウト、店内の内装などには様々な工夫がなされている。それにより、紙の本の購入は、いわば出会いと娯楽と、そして思い出が一体になってくる。
 そういった逆説的な状況の中で、本の販売と購買は消費と所有の目的の違いで、二極化しながら新たな形態を作っていくであろう。(384字)

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