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「葛藤・つながれなさ」の先には、何があったのか?

先日、LGBTQ+と現場に立つアライに贈る【 ディープデモクラシーへの扉@大阪 】  ー「葛藤・つながれなさ」の先へ ーに参加させていただいた。

圧倒的に刺激的で、圧倒的に生身でリアルで、圧倒的に心の奥深くに潜り、圧倒的に何かしら壮大なものに心を包まれて、圧倒的に身体感覚も感情も心に刻まれた時間だった。

今回のこの合宿。
私の人生にとっての意味が多すぎて、うまく言語化できなくて、油断すると、「ただただすごかった!!」で終わらせてしまいそうなので、ちゃんと言葉にして残しておきたい。
でも、言葉にした先からパラパラとこぼれ落ちてしまう感じもある。
けど、あとで思い出せるように言葉にする努力を。

参加するまでのプロセス

二人の子どもたちの受験が今年の2月半ばに無事に終わりそれぞれ進路が決まって、4月の入学式を迎え、学校生活を楽しみ始め、心からふーーーっと一息をつけたと感じた6月。

特に、上の子は中学にあがってから不登校の時期があり、一言では言い表せないけど思春期も相まって非常に鬱屈とした中学生活を送っていたので、高校は楽しく過ごせるのか?友だちができる気がしない!とか本人なりの不安や緊張もかなりあった。
「高校って想像してたより楽しい」とある日ぼそっと言ったのを聞いた時は本当に嬉しかったし、心からの安心が染み渡り、夫と手を取り合って喜び、涙を流さずにはいられなかった。

そんな穏やかな日々が訪れて、私自身の心のスペースが3年ぶりにようやくできた時に、そろそろ自分の中の葛藤に向き合うタイミングがやってきた、今だ、とふと感じた。

私の中にどんな葛藤があったのか?

我が家の二人の子どもたちは、二人とも体は女の子で生まれたけど、心は男の子だと感じているトランスジェンダー。
それぞれから個別にこんな風に感じているんだと、ある時手紙を通して教えてくれて、両親はそのことを知っているけど、兄弟同士は知らないというそんな家庭。
いわゆるカミングアウトを受けた時は、私自身とてもびっくりしたし、動揺もしたし、どんな風に関わっていったらいいのか?と漠然としてるけど強い不安もあったし、でも、話してくれてありがとうとちゃんとその時に言うことはできた。
その後、LGBTQ+の当事者の同僚やアライとして活動している友だちに相談させてもらったりしながら、学校生活など日々の中で困っていることは先生にも理解をしてもらえるように話したり、惜しみない協力をしてくれる先生もたくさんいた。感謝が抱えきれないほどに。

とはいっても、本人たちは日々の中で不自由さを感じたりすることもあるんだろうし、傷つくこともあるんだろうけど、それぞれなりに今は学校生活に楽しみを見つけて楽しく過ごしているように見えていて、ひとまずほっとしている。

だけど、私自身が、本当の意味で心から子どもたちのことを応援できているのか?ともし問われたとしたら、うまく答えられない自分もいた。
もちろん子どもたちのことは大切だし、応援もしているし、自分を偽って生きて欲しいなんて思ってないし、私も学んだり教えてもらいながら子どもたちそれぞれの人生を幸せに送れるようにサポートしたいと思ってる。

でも、ずっと動揺している自分が本当はいた。
ずっとうまく言葉にできないし、誰にも話せていない葛藤や喪失感が自分の中にあった。
どうやって向き合ったらいいのかわからないし、考えようとすると感情があふれて涙が出てきてしまって、そこから先に想いを馳せること自体も難しかった。
徹底的に横において、蓋をして、平常心を装いながら日々過ごしてきた。

家族は仲が良くて恵まれている方だと思うし、子どもが親にカミングアウトできるなんてとても信頼されてるんだね、すごいことだよと言われたりして、きっとこんな葛藤はちっぽけなことなんだろう、感じる必要のない葛藤なのかもしれない、むしろ感じてはいけないのかもしれない、きっといつか消えていくものかもしれない、そんな風に思おうとしてた。

向き合うなら今

でも、数年経っても葛藤は消えることなく残り続けていたし、葛藤について考えようとすると涙があふれてくることも変わらなかった。このままにするのは違う、という気持ちがあった。

葛藤に向き合うならば、心のスペースがあって、子どもたちが本格的に大人になる前の今だ、という感覚があって、ただ受け入れるとか、知識を学ぶとか、頭で理解しようとするとか、そういうことだけじゃなくて、本当はその先にいきたい、心から応援したり、自然なこととして話せたり、子どもたちの未来を本当の意味で楽しみに思えるようになりたいなと思ってた。
でも、一体とうしたらそれが可能になるのだろうか?

どうしたらそれが可能になるのか?どこで可能になるのか?まったく手がかりがないまま、どうしようとウロウロしていたその頃、ある漫画に出会った。

異国日記という漫画だ。

レズビアンの登場人物が「親元から離れて始めて、親から許してもらえてるって思わなくて済むんだと思う」というようなことを言っているのを読んで、ハッとさせられた。
自分の子どもたちにも、そんな風に思われているかもしれないとドキッともした。
そんなことは私は望んでいないし、悪いことを何一つしているわけじゃないのに許してもらえてるなんて感じさせることになっていたとしたらとても悲しい。
ただ、自分の動揺や葛藤がいまだに消化しきれてないだけ。
だけど、そのことによって与えている嫌なインパクトがあったとしたら、本意じゃないのにと。

やっぱりどうにかしたい、向き合いたいと改めて思うようになった。

そんな時、tomoni.のいっちゃんの今回の合宿についての投稿を見て、タイトル「LGBTQ+と現場に立つアライに贈る【 ディープデモクラシーへの扉@大阪 】  ー「葛藤・つながれなさ」の先へ ー」を見た時に、これは呼ばれている!絶対に!って思った。

この機会を逃したら、きっとまた葛藤に数年向き合えないまま過ごしてしまうことになるだろうと。
でも、向き合うのが怖かったから、すぐに申し込めずにウダウダウダウダして、いっちゃんの投稿を読んだり、そっとずっとフォローしていたDayaさんの投稿を読んだりしつつやっぱりウダウダしてて、他にもすごい参加したいイベントが日程かぶってるしなぁとか、大阪遠いしなぁとか、自分に言い訳してたけど、異国日記をもう一度読み返して、やっぱり参加しようと決めた。
決めたのに「あー、行くのほんとは怖くて嫌だなー」とかブツブツ言ってたけど、でも、大阪に向かう当日には急に気持ちが軽くなってきて、tomoni.の二人やDayaさんについにリアルに会えるの楽しみだなぁとか、どんな人が参加するのかな?とか楽しみになってきて、新幹線で大阪に向かおうとしたら新幹線が遅れたりしたけど、ちゃんとだどり着く気しかしなかった。
きっとものすごくエッジを感じていたけど、エッジを超えた先に希望が見える気がして、超えよう、超えたいと覚悟が自分の中でできてきたのかな?と振り返って思う。

この合宿、一体どんな時間だった?

合宿が終わって、帰りの新幹線に乗って東京に帰る道すがら、この合宿はどんな時間だったかな?何が私に残ってるのかな?と振り返っていた時、「かいほう」という言葉が浮かんだ。
でも、すぐに浮かんだ「解放」とか「開放」という言葉だけでは言い表せない感じがあって、帰宅してゆっくり調べたらしっくりする4つの「かいほう」という言葉に出会えた。

今回の合宿の中で、【開放・介抱・解放・懐抱】を強い身体感覚とともに体験して、その身体感覚やありありとしたその場の情景や心象風景とともに持ち帰っている今、一つ一つのことを後から思い出せるように書き残しておきたい。

【開放】
あけはなすこと。「窓を―する」「―厳禁」。あけっぱなしになって自由に出入りできること。「―性結核」。制限を解くこと。自由に出入りさせること。
【介抱】
傷病者などの世話をすること。看病。
【解放】
ときはなして自由にすること。「人質を―する」。体や心の束縛や制限などをとり除いて自由にすること。
【懐抱】
1.ふところに入れて持つこと。
2.ある考えを心に持つこと。抱懐。

開放

人前でダンスしたり、ハグしたり、身体的接触をしたりするのが実は結構苦手。
嫌だというより、慣れなくて、ドギマギモゾモゾしちゃう。 
でも、今回の合宿では、敢えて体自体も入り込むことで何かしらつかめるものがあるのかも?と好奇心を持って入り込んでみたら、体を開放することは、心を開放することにこれほどまでにつながっているのかとすごく驚いた。
体と心はやっぱりこんなにも繋がってるのだと改めて体感したし、ダイナミック瞑想やダンスでなかば強制的に体の開放から心の開放をするからこそ、本音をぶつけても大丈夫!、思い切って話してもきっと大丈夫!、という心をオープンにしていいという気持ちを強く持てて、深かったり重かったり怖かったりするプロセスに、みんなで手を取り合いながら心を寄せながら互いを信じながら没頭することができるのだと納得。

インナーワークも同じく開放の体験だった。
手の動きを広げることで、心の広がりまでふわーーっと感じて、え?あれ?もっと広がる?と手の広げ方の限界を自分で作ってしまっていたけど、もっと広げられるかもと広げたら、心もさらにさらに広がっていく感覚を得られて、なんて素敵なんだ!と心が喜んでいるのを感じて、私のウォッチャーが私を俯瞰して見ながら、いいね!いいね!その調子だよ!って応援してくれてた感じ。

もう人前でダンスやハグや人との身体的接触にあまりドギマギモゾモゾしなくていい、心と体は繋がってるから、体を物理的に開放すると心も無限に広がると思えた大きな開放の体験だった。
なんとなくだけど、私のように身体的接触に抵抗感がある人ほど、好奇心を持ってちょっとだけ無理をしてこの体験にどっぷり没頭してみると、思わぬ新鮮な気づきや発見があるんじゃないかな?と思う。
そして、この感覚はすぐに消えやすいんだろうなと思うから、地道にインナーワークだったり、プラクティスを積み重ねることもとても大切なんだろうな。

介抱

みんなで話した時に、親のロールとしてでもあり、私自身のパーソナルな心の奥の奥に塩漬けされていたものを思い切って、でも、うまく言葉にならなくて不器用に言葉にして場に出させてもらったとき、直接我が子に話しかけてるわけじゃないのに、圧倒的に生身でリアルで、子のロールの声からたくさんのものを受け取らせてもらった。
愛情、感謝、尊重、祝福というあたたかなものも。
苦悩、やるせなさ、痛み、哀しみという胸がぎゅっとなるものも。

子のロールの声から受け取ったものを、そのまま受け取ってみた時に、私の中の動揺や葛藤を私はこれまで無視して、ないものにしようとしていた結果、知らず知らずのうちに私の心を延々に傷つけていたのではないか?と気づいた。
動揺や葛藤は確かに私の中にあるよねと存在をただただ認めてあげて、心の中に居場所を作ってあげることによって、私の中に癒しや穏やかさがやってきたように思う。
みんなの力を借りさせてもらってはいるけど、最後は私が私をそっと介抱して、私の中でないものにしてきた動揺や葛藤をここにいるよねと、抱きしめてあげたんだという感覚があった。
そうか、ないものを認めてあげるだけで、こんなにも心の在りようは違うんだという介抱によって起こる変容の体験があった。

解放

合宿の中で何度も感じたこと。
みんなのいろんな声、想い、非言語の何かしらも含めて場に出されたあとに、最後にはいろんな色になって混じったり、漂ったり、消えたり、空にあがっていったり。
消化?昇華?消火?融合?融解?溶解?
痛みや傷に、静かに愛や癒しが寄り添ったり?
上手く、言い表せないけど、とにかく解放のイメージ。
しがみついていたり、離れられなかったり、握りしめていたりしたことが、そっと解き放たれていく瞬間に何度も居合わせてもらった気がする。
目に見えないけど目に見えるみたいなその瞬間。

自分の中で感じた解放は、ダイナミック瞑想で一番強烈に感じた。
我慢すること、押し殺すことにどれだけのエネルギーを使ってしまっていたのか?ということがぐわっと湧き上がってきて、あぁ、なんてもったいないエネルギーの使い方をしていたのか、と。
本当はもっと自由に奔放にエネルギーを発散させたいと願う私もいるのに、最近は押さえていることに使っていたのかもしれない。
もっと子どもの頃の私に戻る感覚になってもいいのかもしれない。
とはいえ、すぐに解放しきれるわけでもなく、そんな解放に向かいたいという気持ちを持てたこと自体が大切な一歩目で祝福の体験。

懐抱

今回の合宿で、Dayaさんが日常への持ち帰り方を繰り返し繰り返しシェアしてくれることが、とにかく最高だった。
どんな学びも、学びだけでその場だけで終わってしまったら、何も私の日常は変わらないと思う。
とはいえ、新しい学びを学びたての自分の力だけで日常に結びつけることはそんなに簡単なことでもないから、日常への橋渡しのヒントやDayaさん自身の経験を何度も何度もシェアしてくれたことは、本当にパワフルで貴重で尊い。
(しかも、帰宅してDayaさんの動画を検索してみたら、え!これ全部見させてもらっていいんですか?と太っ腹すぎる動画がたくさんあって感涙。
謎に夜中にDayaさんが語ってるfacebookLIVE?の配信の動画とかも面白すぎる。最高だ。ありがとうありがとうありがとうありがとう。)

今回、私が合宿中にずっと書いていたノートというかコンパクトなスケッチブックに、持ち帰りたい言葉やイメージをメモし続けていたのだけど、どれも宝物のような言葉やイメージたちで、私とその先に繋がってる社会がSustainableな形で変わり続けることの助けになってくれそうなので、心に携えながら、時折立ち戻りながら、生きていきたい。

まさに懐に抱く。懐抱。
知らなかったけど、素敵な言葉。
これからの私の生きる道に現れるであろうたくさんのプロセスを歓迎して迎え入れて、満喫して、意味を見出して、私の血肉にしていくために、忘れないように傍らに懐に抱きながら歩みたいと思う。

今回の合宿では、
心を開放して、
自分で自分を介抱して、
みんなと私の解放の瞬間や欠片を感じて、
合宿で受け取ったことを日常で大切に懐抱していく。
私にとってそんな時間だった。

「葛藤・つながれなさ」の先に何があったのか?

今回の合宿の主題である「葛藤・つながれなさ」の先に。
本当に想いのこもった主題だと見た瞬間に感じたこの主題。

みんなでグループプロセスをしたときに、あぁ、ここにいるみんなは、今の世の中でジェンダーやセクシュアリティに様々な葛藤や苦しみを抱えていて、生きている中でこんなにもこれまで何度も何度も数え切れないくらい傷ついてきて、ただ生きているだけ生活しているだけでも日々に疲弊しきっているのに、なんて切実に真摯に懸命に生き抜こうとしているのだろうと心が震えた。
こんなに生き抜こうとしているにもかかわらず、変わらずしんどいことに日々日々遭遇することになり、溺れそうになっていて、だけど、それでもなお、諦めない。

なんという強さを秘めているのだろう。
エネルギーの表出の仕方は人それぞれ違うけど、一人ひとりなんて美しい命の煌めきがあるのだろう。

私はこれらのことをこれほどまでには、わかっていなかった。
ごめんねっていう気持ちと、ここにいる人たち全員が愛おしいし、心から尊敬するという気持ちと。
そして、本当に本当に私のこれからの希望だと思った。
我が子たちがここにいる人たちみたいに懸命に生きてくれたら、こんなに嬉しいことはあるだろうか? 

葛藤やつながれなさのトンネルの先に、私が出会ったのは「希望」だった。

最後に言葉にしておきたいこと

最後につれづれに。
この合宿、大阪まで行くし、体力ない私にはヘロヘロになるかなと思ってた。
なのに、全然疲れなかった。
むしろエネルギーがわいて元気になって帰ってきた!すごい!!!

それから、プロセスワークが持っている、人がより良く生きるための叡智は、いろんな日常の中でパワフルに役に立つことばかりだなぁと思って、たくさんの視点や考え方ももらったので、自分のあり方を見つめたり、関係性や起きている出来事の解像度を上げるためにも活かしてみたいし、学びをさらに深めたいと思った。

3年前くらいからNVCなど内面について目を向けることを学び始めて、一人ひとりの内面にあるものにたくさんの可能性が詰まっていることや、そこへの感度を少しずつ少しずつ磨いて来れたからこそ、今回の合宿で受け取れたものがたくさんあったのかなと思う
3年前くらいから、この合宿へのプロセスが実は始まっていたのではないか?!と思うくらい。

あと、超ざっくりとした言葉だけど、パッションが乗るように自分を解放して書いちゃうけど。
とにかく、2日間、半端なく濃かったーーーー!!
導かれてやってきて、怖かったけど、この2日間を過ごせて本当に良かった!!!

最高に豊かな時間。
いろんな感情が渦巻いた。
心の核心に迫ってきた。
鮮やかすぎた。
痛かった。
愛に触れた。
癒しが訪れた。
深い繋がりを感じた。
希望が立ち現れるのを目の前で見た。

tomini.の二人、ありがとう。
Dayaさん、ありがとう。
仲間へのたくさんのありがとう。
自分へのたくさんのありがとう。

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