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薄明研究所 | トワイライト・ラボラトリー

《あらすじ》
舞台は氷河期の地球。
生き残った人類はコールドスリープをしながら、地球が再び目覚めるまで電脳世界 "テラ" で暮らしていた。

主人公シグマはそんな電脳世界 "テラ" を運営する薄明研究所の研究員。
彼の仕事は氷河期が終わるまで、電脳世界に住む人類を守ることだった。
日夜起こる予期せぬ電脳世界でのバグの解決に取り組む、研究員たちのSF (少し不思議) な日々を描いた物語。


薄明研究所 1 話

じりじりと紫外線が肌を焼いている。
シグマの眼前には、果てしなく広がる大海原と、雄大にそびえ立つ入道雲があった。

手元に握りしめた釣竿は、ぴくりとも動かない。
やさしく耳に響いてくる波の音と海鳥の声に、シグマのまぶたはだんだんと重くなってくる。

こうしていると、子供の頃家族と過ごした夏を思い出すようだった。

日が暮れるまで遊んだ、波打ち際のきらめき。
父さんの背中でゆられながら帰った、夢見心地の帰路。
家につくと夕飯の香りがふわりとして、母さんがおかえりなさいと言ってくれたっけ。

会いたいなぁ…

ぴくり、と手元の釣竿が動いた感触がする。
はっとしたシグマは、ぱちりと大きな目をあけ、急いで竿を持ち上げる。

その瞬間

ピリリリリ

耳をつんざくような電子音が鳴り響く。
途端、バツンと音をたてて真っ暗になった視界にシグマは「あっ」と声をあげる。目元に装着したゴーグル型デバイスを外すと、そこはなんの変哲もない小さな白い部屋の中だった。

『お時間です 業務に向かってください』
膝丈くらいのロボットが、ひざを小突いてくる。

「おい、いいところだったのに」
『お時間です 業務に向かってください』

「はいはい わかったよ」

身体が冷えないよう、しっかりと汗を拭き、白衣を羽織る。
部屋の隅にある小窓の外を見やると、外は見渡す限り一面白と黒の世界だった。

ビョォ、と吹雪が強く窓に吹き付ける。シグマは小さくぶるりと身震いをした。

地球は今終わりの見えない氷河期を迎えている。

=

それはよく晴れた初夏の気持ちのいい日のこと。
ある日宇宙からやってきた巨大な未知の生物が地球に衝突したのだった。

美しいクジラのような見た目のその未知の生物は、オーロラとともにゆったりと空を泳ぎながらやってきた。
誰もがその光景に目を奪われたその瞬間、とてつもない地響きが鳴り響き、爆風が地表に吹き荒れる。

世界を火の海が包み込み、地獄のような光景が 7日7晩と続いた。
人々の悲痛な声がまた一人一人と消えていくと、やがてそれらをやさしく覆い隠すようにしんしんと雪が降り、地球に氷河期がやってきた。

こんなことだれが予想できただろうか。いや、誰にも予想はできまい。
多くの命が一瞬にして失われ、人類は絶望の底に突き落とされたのだった。

=

暗くて冷たい廊下の先に、ポツンと一つだけ明かりのついた部屋がある。
すっかり冷え切った両手を温めるようにはーっと息をふきかけ、シグマはその明かりを目指していた。足早にその部屋へたどり着くと、ノックを3回しドアを開ける。

「おはようございまーす」
「おはよう こぐまちゃん!」
「シグマです」

赤髪のおさげに眼鏡がトレードマークである同僚のゼータが、パソコンの向こうからひょこっと顔をのぞかせた。

こぐま、というのはシグマのふわふわの茶髪の癖っ毛と、成人男性にしては小柄な身長からきているあだ名らしい。今どき身体的特徴からあだ名をつけるのはどうなのだ、と最初の頃はシグマも呆れたものだが、特段こだわりもないため放っておくことにしたのだった。

「あれ、今朝も釣り?」
「へっ?」

シグマはぎくりとする。別に悪いことをしているわけではないのに、行動を言い当てられるとなんともいえない居心地の悪さを覚えた。

「白衣、表裏逆だよ」
「えっ」

慌てて白衣を脱ごうとするも、慌てるとなかなかうまくいかない。あたふたと白衣を着直していると、勢いよく部屋のドアが開く。

「おはよう!」
「ファイ室長 おはようございます」
「おはよう!もう全員揃っているんだね。おや、こぐまちゃんは何をやっているんだい。白衣の着方を忘れちゃったのかな」

すらっとした長身にきれいな銀髪をなびかせるのは、室長のファイだ。
黙っていれば誰もが目をひく見た目をしているのに、口をひらくとマシンガントークという残念なギャップの持ち主だ。

「朝からうるせぇ…」
「おや、その様子は今朝もバーチャル釣りがうまくいかなかったようだね。けど好きなものがあるのはいいことだよ。君のその不屈の精神はこの氷河期において貴重だ。たいていの人ならすぐに気が滅入ってしまうだろうからね」

ぺらぺらと話し続ける室長に、よくもまぁ毎日朝からこんなに元気でいられるな、とシグマは感心する。と同時にこんな世界でも正気を保っていれるのは、こういう人のおかげなのかもしれないな、と心の中で感謝の気持ちを伝えた。

「さぁ諸君 今日も人類のために 元気に仕事を始めよう」

=

以下は薄明研究所職員の手記からの抜粋である。

宇宙クジラが地球に衝突後、絶望の底に突き落とされた人類は、宇宙ステーションにいる同胞たちに一縷の望みをかけて助けを求めた。

宇宙クジラ襲来 1日目 まだ返信はない。
宇宙クジラ襲来 2日目 またしても返信来ず。
宇宙クジラ襲来 3日目 誰もが返信を諦めたその時に、一通の信号が入る。

“ 20 年以内に必ず人類の移住先となる星を探し出すと約束する。なんとか 20 年生き延びてほしい。”

誰もが希望を失いそうになった。この資源もエネルギーも燃え尽きてしまった氷河期の地球で、20年間もどうやって生き延びようというのか。

生き残った人々は知恵を振り絞った。

宇宙クジラ襲来 4日目 なんのアイデアも浮かばない。

宇宙クジラ襲来 5日目 「生存者を 20 年間コールドスリープさせてはどうだろうか」一人が提案した。アイデアはいいが、それだけの設備を稼働する電力がない。

宇宙クジラ襲来 6日目 「大昔の映画に人体の生体電流と熱をエネルギー源として機械を動かすものがあったはず、それを応用できないか」別の一人が提案した。生存者を電脳仮想世界に住まわせ、人間が生み出すエネルギーを活用して生き延びる、というものだ。一度この策は保留となる。

宇宙クジラ襲来 7日目 他にいい案が浮かばない。人類の存続の策が、大昔の映画のアイデアの応用なんて、本当に大丈夫なのだろうか。しかし迷っている暇はない。人類は賭けにでることにした。

世界中から、生き残った学者や医師、エンジニアをはじめとした有識者たちが集められた。
誰もが大切な人を失っていたが、全員の瞳は使命感に燃えていた。

そうして集められた有志によって作られた研究所は、地球の夜明けを願って「薄明研究所」と名付けられる。

宇宙クジラが襲来してから 14日目 寒さと飢えにより薄明研究所の職員の 3分の1 が死亡。それでも全員あきらめなかった。

宇宙クジラが襲来してからおよそ一ヶ月後 
薄明研究所は世界初の自家発電付き電脳仮想世界 “テラ” の開発に成功。
生存者の収容を始める。

現時点での生存者は以下である。

薄明研究所職員 25名
生存者 (テラ収容人数) 12,742名

=

「落とし穴?」
「そう これみて」

シグマはゼータのパソコンの画面をのぞきこむ。画面上には電脳仮想世界テラの地図が映し出されていた。
地図上には、小さな人形アイコンが動いている。これで常に生存者たちがどこにいるか把握ができるというものだ。

「ここ」
ゼータはマウスをカチカチとクリックしてある一点をズームする。
地図を監視カメラモードに切り替えると、対象地点の現在の様子が映し出され、1人の若者が自身の身長よりもだいぶ深い穴の中で途方に暮れている様子が見て取れた。

「とりあえず出してあげよう」
ゼータは再び画面を地図モードに切り替えると、問題の生存者のアイコンをクリックし、落とし穴の外にドラッグ&ドロップする。
しばらく見ているとアイコンが動き始めた。無事に穴の外に出れたようだ。

「今月に入って5件目ですか…」
シグマとゼータは「うーん」と顔をしかめる。

世界が氷河期に入ってから約一年が経過した。
幸いなことに生存者の収容をはじめて以来1人の死者も出すことなく薄明研究所は今日も稼働している。

しかしながら全てがうまくいっているわけではなかった。
全ての物事がそうであるように、テラもまた完璧ではなかったのだ。

世界中の知恵が集結して作られたとはいえ、いかんせん突貫工事で作られた電脳世界。
テラにはバグや欠陥が乱発していた。

この事態に対処するため、25名の職員のうちシグマ、ゼータ、ファイの3名に割り振られた役職はTerra Emergency Assistance (テラ緊急アシスタンス室)、通称 TEA と呼ばれる電脳世界のサポートチームだった。

「穴にはまった5人の生存者は、何か共通の行動を取ってたりしないかい」
ファイが二人の後ろからひょいっと覗き込む。

「それがみんな時間も場所もバラバラなところから穴に飛ばされてるみたいなんですよね」
「ねー室長、いい加減生存者たちのログの詳細見れるようしてよ。ずっとアクセス申請してるのに承認されないんだけど」

ゼータが不満そうに言う。ファイはそれをいつもの涼しげな笑顔のまま受け流す。
「これは直接聞きに行くしかないかな」
ファイとシグマの目があう。シグマは「へいへい」とデスクから立ち上がる。

「こぐまちゃん、いってくれるのかい。助かるよ」
「はい。ゼータさん、外からサポートお願いできますか」
「まかせて」

シグマは部屋の隅に設置されている卵形のデバイスに乗り込む。中はベッドのような形状をしており、横たわることができた。シグマが横になったのを確認すると、外からファイがプラグをつないでいく。

「準備はいいかな」
「はい」
「それでは 行ってらっしゃい」

=

テラに接続する感覚は、まるでソファの上で寝落ちをするときの感覚に似ているな、とシグマは思う。心地よい眠気に襲われ、まぶたをゆっくりと閉じる。次に開けた時には、電脳世界テラの中だった。

シグマはプレハブでできたこじんまりとした建物の中に座っていた。
この場所はテラ内の転送先として設定している簡易的な事務所のため、中は小さなデスクとソファがおいてあるだけの質素な作りだった。

軽く手足を動かしてまずは自身の動作確認を行う。稀に接触が悪いと、壁にぶつかるまで歩き続けたりすることがあるので、外に出る前に確認をしないといけない。

「うん、ちゃんと身体も動く」

事務所の外にでると、ふわりとあたたかい潮風が頬をなで、南国特有の花の香りが鼻をくすぐる。先ほどまで薄暗く白黒の世界にいたシグマの視界に、あざやかな色彩が広がった。すべてが作り物のはずなのに、何度訪れてもまるで本物のような錯覚を覚えることにシグマは若干の恐怖さえ感じていた。

『こぐまちゃん、大丈夫?』
片耳に取り付けられた外部との通信機器からゼータの声が聞こえてくる。

「はい、問題ないです」
『オッケー、そしたら対象の場所まで誘導するね』

ゼータから地図情報が送られてくる。
シグマはざっとそれを眺めると、近場から聞き取りに行くことにした。

=

電脳世界テラは四方を海に囲まれた小さな島が舞台であり、生存者たちは皆この島に居住していた。
島内は豊かな自然や娯楽施設をはじめ、四季折々で様変わりする景色やイベントごとなど、住民が電脳世界で飽きずに快適に過ごせるよう設計されている。

緑が豊かな緑道を通り抜けると、一人目の自宅が見えてきた。煙突からもくもくと煙がでた、可愛らしい小さなコテージだ。

「ごめんください」
季節の花で作られたであろうリースが飾り付けられたドアをノックすると、中からきれいなブロンドのロングヘアをくるくると巻いた女性が出迎える。

「リリーさん、ご無沙汰しております」
「あら、シグマさんじゃない 珍しいお客様ね」
リリーはぱぁっと笑顔をほころばせる。ロングヘアがふわりとゆれ、部屋の奥から焼きたてのクッキーの香りが漂ってきた。

「ちょっとお伺いしたいことが…」
「ちょうどいいところにいらっしゃったわ。今クッキーが焼き上がったところなの。よかったら一緒にお茶会はいかがかしら」
「えっ」

リリーはシグマの手をとる。シグマは一瞬どきりとする。
毎日仕事でテラの様子を見ているとはいえ、氷河期になってから人との交流がめっきり減っているシグマにとってはなかなか魅力的なお誘いだった。

「いいじゃない、少しだけどうかしら」
「えーっとその…」
『こぐまちゃん?見えてるからね』
耳元の通信機器から聞こえてきたゼータの声に、シグマはふるふると頭をふる。パソコンの前で呆れた顔をしているゼータとファイの顔は想像に難くなかった。

「お気持ちはありがたいのですが、今日はちょっとお聞きしたいことがありまして…」

=

外の日差しの強さとはうってかわってコテージの中はひんやりとしており、窓を開け広げるととても心地の良い風が通り抜けていった。遠くからは波の音と子供たちが遊ぶ声が聞こえてくる。
シグマとリリーはリビングの席に腰掛ける。シグマは、耳につけている通信機器をはずし、スピーカーモードに切り替える。

「ゼータさん、聞こえますか?」
『うん、大丈夫だよ。こっちで記録とるね』

「それで、落とし穴に落ちたときのことを聞きたいのね」
「ええ 数日前に落ちたの覚えていませんか」
「もちろん覚えているわ。とってもびっくりしたけど、これまで落とし穴にはまることなんてなかったからちょっと楽しかったわ」
「その日のこと、なるべく詳しく教えていただけないでしょうか」
リリーが顎に手を当て、うーんと考え込む。

「どうっていってもね、ドアをあけたら気づいたら穴の中にいたからよくわからないのよ」
「どちらのドアですか?」
「そこの玄関のよ」
シグマは玄関のドアを見た。上半分が磨りガラスになっていて、誰かがきたら人影がわかるような作りだった。

『シグマ、一回ドアあけてみて』
ファイの指示に従って、シグマはドアを開けてみる。
なんの変哲もないドアで、当然穴に落ちることなどない。シグマは何度か開けしめしてみる。
そんなシグマの様子をみて、リリーはふふっとほほえむ。

「テラの運営さんは大変ね」
「いえいえ、みなさんに快適に暮らしてもらうのが俺たちの仕事ですから」
「本当に頼もしいわ。みなさんがいなかったら、今頃人類はとっくに滅びていたもの」

シグマは手をとめ、顔だけリリーの方にかたむけて聞く。
「…ちなみにその前にしていた行動などはありますか?いつもと違ったことをしていたとか」
「そうねぇ…その日は今日みたいにクッキーを焼いていたわ。午後から、お外でピクニックをしようと思っていて…」

「あっ」とリリーはなにかを思い出したような声を出す。
「そういえばどなたかが訪ねてきて、ドアをノックしたの。どちらさまですかって声をかけたけど返事がなくて…」
「訪問者ですか」

シグマは、一度ドアをしめ、コンコンとノックしてから開けてみる。やはり何も起きない。一回ノック、二回ノック、三回ノックといろんなパターンを試してみる。

「相手は知っている方でしたか」

「いいえ、ドアをあけたら落ちちゃったから、顔は見えなかったのよ」
「そうでしたか…」
「この世界になってから、お客様が来ることなんて減ってしまったでしょ。だから誰かきてくれたのが嬉しくってついすぐにドアをあけてしまって…あれ、なんですぐにドアをあけようと思ったのかしら」

リリーはなにかを思い出しながら言葉を紡いでいく。その声色が変わったのに気づいたシグマは、リリーの顔を覗き込む。

「リリーさん、無理に思い出さなくて大丈夫ですよ。もう十分です。ご協力ありがとうございます」
「そう、たしかあの日だって今日みたいに風の気持ちいい日だったわ。ちょうどクッキーを焼いていたの。夫が帰ってきて、ドアをノックする音が聞こえたのだけど、私手が離せなくて、ちょっと待ってって言ったのよ。そしたらあの恐ろしい宇宙クジラがやってきて…」

リリーはいつの間にか先程までの笑顔が消えて、魂が抜けたような無表情をしている。シグマはやってしまったと思った。

「リリーさ…」
「シグマさん、私ね、あの日からずっとどうして早くドアを開けてあげなかったのかって後悔しているの。」
リリーはシグマの腕をつかむ。思ったより強い力に、シグマは驚く。

「私ね、シグマさんがこうやって訪ねてきてくれて嬉しかったの。こうやってずっと私とおしゃべりしていましょう。クッキーだって毎日焼いてあげるから、ねぇ一緒にいてよ」
『こぐまちゃん一回離れて』
「ごめんなさい」
シグマは立ち上がって距離を取る。途端、リリーの動きがぴたっととまり、頭上にぐるぐると回る青い輪っかが出てくる。しばらくすると輪っかが消えて、リリーは何事もなかったかのように動き始めた。

「あれ 私どうしちゃったのかしら。ぼーっとしちゃってごめんなさいね。シグマさん、よかったら私のクッキーいかが?」

=

「うーん」

落とし穴におちた 5 人から話を一通り聞きおえたシグマは、最初に転送されたプレハブ小屋の事務所に戻るため海沿いの道を歩いていた。手にはリリーからもらったクッキーを持っている。ぽり、とかじると優しい甘みがした。

「今のところ共通するのは、全員ドアを開けた瞬間に落とし穴に落ちたってことか…」

リリーのコテージをあとにしたあと、シグマは順番に残りの生存者にも話を聞きに行っていた。いずれも、特に心当たりはなく、ドアをあけると気づいたら落とし穴に落ちていたとのことだった。

ふとシグマは話を聞いた 5 人のことを思い出していた。テラの住民はみな、穏やかで優しく、シグマたちの仕事に喜んで協力してくれる。
それも当然といえば当然なのだ。そのように設計したのは何を隠そうシグマたち自身なのだから。

テラでは全住民が元の世界の記憶を保持しているかわりに、感情状態をモニタリングするシステムが存在している。悲しみや苦痛、怒りといった負の感情が一定の値を超えると、先ほどのリリーのように感情の調整プログラムが走るのだ。

シグマの前を、楽しそうに追いかけっこをしている子供と犬が通り過ぎていく。
もちろんこの犬も作り物で、住民からの強い要望で先月ようやく実装したのだが、無事に動作している様子にとシグマはほっと胸をなでおろした。

テラの中にいると、幸せとはなんなのだろう、とシグマはつい考える瞬間がある。争いも、悲しみもない、皆が幸せな状態で過ごせるよう設計されている、一見ユートピアな電脳世界テラ。

氷河期以前にも見たことがなかったような、鮮やかな夕日がノアの頬を照らす。ここはすべてが美しかった。

シグマの頭を、先程のリリーの姿がよぎる。
みな辛い思いをしたのだから、せめて仮想世界の中では幸せであってほしい、とシグマは願う。ただ、そこに言いようのない歪みのようなものも同時に感じていた。

そんなことを考えていると、次第に頭がぼやけ、フリーズしているような感覚が襲ってくる。
はっと気がつくと、シグマは事務所のプレハブ小屋の前に立っていた。シグマは両手でぱんっと頬をたたき、ふと浮かんだ考えを打ち消す。

自分の使命は、氷河期が終わるまで電脳世界に住む人類を守るということ。それだけを考えていればいい。

=

プレハブ小屋ドアの前で、シグマはひたすらドアを開けしめしていた。

『この状態だとエンジニアにバグの報告をしても直してもらえないわ』
『まずは再現性があるかどうか確認しないとだね』

ゼータとファイとの会話を思い出している。
それもそのはず、薄明研究所の研究員は限られているので、問題があやふやな状態でエンジニアに報告をあげたとしても、修正が後回しにされてしまう可能性があるのだ。
シグマは原因が特定できるまで色々なパターンでドアを開けてみることにしたのだった。

「どのドアでも起こり得るということは、開け方に問題があるのか…?」
あごに手をあて、シグマはうーんと頭をかしげる。

「たとえばつま先立ちで出てみるとか…」
「後ろ向きにドアに出入りしてみたり…」

ぶつぶつとつぶやきながら、一つ一つ考えられるパターンをつぶしていく。
端からみたら滑稽なその光景も、シグマにとっては大事な業務の一貫だった。

=

「あーっくそ」
シグマは頭をかきむしる。つい今しがた、ドアを高速で開閉する、というパターンをためしてみるも、うんともすんとも言わない。思わず強めの力でドアをばんっと閉めてしまった。

「なんだか楽しそうなことしてるね」
背後から突如話しかけられる。はっとしてシグマが振り返ると、一人の男がシグマの背後に立っていた。足音や気配もなく、パソコンのポップアップのように、突然現れたその男にシグマは本能的に一瞬ひやりと警戒する。
が、すぐにその考えを振り払う。ここにいる人は全員、システムによって管理されているのだ。何も問題はあるまい。

「すみません、うるさかったですか」
シグマは今までの奇行が見られていたことに恥ずかしさがこみあげる。
男はそんなシグマの様子を意に介さず、話しかけてくる。

「君、テラの運営さん?」
「えぇ・・・」

ふぅんといいながら男は面白そうにシグマの頭の先から足元までじろりと見る。居心地の悪さを感じてシグマは再びドアノブに手をかけた。

「それでは、仕事があるので」
「ってことはこの世界の神様なんだ」
「へ?」

おもむろに、男はシグマの手の上からドアノブを握ると、6回ほどゆっくりと回し、7回目でドアを開ける。
ドアの向こうには、ぽっかりと地面に黒い穴が空いていた。シグマはひゅっと息をのむ。

「これ、どうやって…」
「ねぇ、どうやったら僕も神様になれるのかな」
「え?」

男の顔を見上げた瞬間、とんっとシグマの背中が軽く押される。
内蔵がもちあがるような感覚がして、気がつくとシグマは大きな穴の底から青空を見上げていた。

=

「こぐまちゃん、おつかれさま!よく見つけてくれたよ」

その後、落とし穴に落ちたシグマは無事に救出され、テラからログアウトし、研究所に戻ってきていた。
先ほどまでの色彩鮮やかな世界から、一気に冷たく暗い現実に戻ってきて、シグマはふぅと小さくため息をついた。

「まさかドアノブを7回まわしてドアをあけると落とし穴が出現するなんてね」
室長のファイが、ふむと腕組をする。

「単なるいたずらならいいんだけどね」
「たまたま気づいた誰かが、あらかじめドアノブを6回しておいて、次にそのドアを使う人を落としたってこと?いたずらで?」
「あくまで可能性のひとつだよ」

「こぐまちゃんが見たという謎の男。その男がこのバグを最初に発見したのだったら、なんとしても特定したいところなのだけど」
シグマは先程背後に立っていた男のことを思い出す。
たしかに顔を見たはずなのに、全く思い出すことができない。

ファイはパソコンをカチャカチャと操作する。

「どこにも記録がない」
「そうですか…」
「ともかく、この件は落とし穴のバグとあわせてエンジニアにレポートしておくよ。大丈夫、そこでその男の存在もわかるはずだ」

シグマとゼータは顔を曇らせている。
そんな二人の様子を見たファイは、さて、と胸の前で手をぽんっと打つ。

「今日はふたりとも、よく頑張ってくれたね。よかったらこのあと三人でディナーでもどうかな」
「ディナーっていっても、いつもの缶詰ごはんでしょ」

うーっとデスクに突っ伏すゼータに、ファイは “ちっちっ” と大げさに人差し指を顔の前でふる。

「それが先程食料資源開発室から連絡があってね、どうやら今朝はなんと、バナナが収穫できたそうなんだよ」
「実験に成功したんですね」
ゼータとシグマの顔がぱぁっと明るくなる。
「全員に一本ずつくれるんだって、そうとわかれば食堂へしゅっぱーつ」
ファイはシグマとゼータの背中に手をまわし、三人で寒くて暗い廊下を歩き始める

「特別に今日は小麦粉と砂糖をわけてもらって、僕がバナナクッキーを焼いてあげよう。知ってるかい、バナナはセロトニンの生成を助けてくれ…」
「もー室長、声がでかい」

静かな廊下にファイの明るい声と、ゼータの小言が響く。
終わりのみえない雪と氷の世界。
ふとシグマは先程幸せについて考えていたときのことを思い出す。案外、こういうささいな瞬間が自分を生かしてくれているのかもな、とふとシグマは思った。

三人でくっついて歩くと、なんだかいつもの廊下が温かい気がして、シグマはふふっと小さく笑った。

=

ここは、地球の夜明けを待つ「薄明研究所」。
今日もまた、白黒の 1 日が過ぎていく。

つづく


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