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ネプリ、インザダークの感想

ことし、2024年のゴールデンウィークのお供に、と出力した「並列」の作品「インザダーク」の感想を書きます。「並列」は夜月雨さんと斎藤君さんの文芸ユニットで、たいへん気になる存在なんですよ。

その中でも特に気になってしまった3つの作品、「春宵」「Phantosmia」「くる」について書こうと思います。

さて。
わたしは現代詩の読み方をよく知りません。なのでその前提で語ります。不勉強で申し訳ないのですが…。まずは冒頭の「春宵」です。

春宵

短歌連作なのか、そのリズムを持った詩なのか、どちらが正かはわかりませんが、おなじ主題が異なる視点から言葉のリズムで重なる、ポリリズムのような印象を受けました。リズムが重なるところで波が高まるよう情感が寄せてきて、そして消えるように終わる、その感覚とリズムをセックスのそれと捉えるのは行き過ぎじゃないと思います。

テーマとなっているのは春の、その妖艶な腐乱の様子といえばいいんでしょうか。主客が転回しつつくんずほぐれつ、爛れながら一体化していく様子が描かれています。泥濘や獣のようなモチーフに、夜香蘭、果実の果皮、といった美的存在が絡み、汚されていくさま。梶井基次郎の「桜の樹の下には」における「水晶のような液体」として、美醜を飲み込みつつ主客は合一を果たし、春そのものの養分として腐乱の中に落ちていくようです。むちゃくちゃエロティックです。好きです。好物です!

ぐちゅり、ぼたぼた、といったオノマトペが配されて、五感を刺激してくるそれが世界への没入を促しているんでしょうか。読んでいる私も堕ちていく者たちと重なって、でも不意に、何もなかったかのように終わってしまい途方に暮れてしまうのです。いっときの春嵐がやみ、無風になって、はて、これは現実だったのか夢だったのか、と置いてきぼりにされる感じまで綺麗…。

そう思えるのも、日本人のDNAの中に「桜への美意識」が、あるいは標準でセットされているからかもしれない。そしてそこには死と狂気のイメージも同時にインストールされているはず(決定づけたのはおそらく西行と梶井基次郎と坂口安吾でしょう)。

そうして、うららかで歌い出したくなるような季節の中に狂おしい爛れを孕むこの「春宵」も系譜の中にいるのでしょう。春に腐乱と狂気とを宿す文化の中に生きているってことについては、もはや感謝しかありません。速攻でスイッチが入る。そしてもっと爛れていたい。

Phantosmia

はい。次はですね、短編小説「Phantosmia」についてです。寡聞にしてファントスミアという言葉をはじめて知りました。そこに匂いがないのにしてしまう、一種の嗅覚障害なんですって、知らなかった。

匂いを知らない男と、その男に香水をつける女の物語なわけですが、匂いを知らない男に香水を贈りその匂いごと愛するという女は、果たして男を愛しているのか、いや、愛しているのだろうとは思うのだけど、そこに自分の影を差し込むことについては彼女は全く否定しない。「あたしの贈った香水が、この男の顔をしている」とすら言う姿は、ナルシスの寓話のようにも見えますね。

そもそもが非対称で、どこかで何かが欠落している恋のこの、一方通行感。見ているものは真実じゃない(かもしれず)、あたしと言うフィルターを通して観測された時点で客観的な世界ではあり得ないし、だから完全な愛を形作るためのデコイとして、あたしはあたしから彼の形を作る。
あぁ、これは逆・アダムとイブなんじゃなかろうか。アダムが肋骨でイブを作ったみたいに、あたしはあたしの匂いで男の輪郭を作るのか。だからこんなに曖昧で、だからあたしは自分ごと全て丸めて愛さざるを得ない。

「春宵」と同じく、境界が曖昧にとけていく姿。「Phantosmia」では香りをその触媒として、彼とあたしとを曖昧にかき混ぜながら、すべてを愛していると言う「あたし」。それが本当に「彼にとっての彼」なのか、実は認識の異なるナニカを愛してしまっているのでは?の冷え冷えとした疑問で終わるのかな、と思いきや、まるごと自分のものとしてすべて愛していると言い切る彼女は明るくて、あぁ、強いなぁ。
そんな風に春宵の、陽のあたる面のように読めたPhantosmiaでした。
でもちょっと怖いな。本当にいるのかな?彼は…。

く る

はい。短編小説「くる」についてです。
いやこれは、怖い。すごく怖い。「今、ブエノスアイレスを出た」の一文がなにしろ秀逸で、シビれます。
それが何なのか、読者には最後までわからず、まじないのような「それを遅らせる」行為も、デティールが細かいだけに不気味な説得力があってグイグイ読んでしまった。
「それ」とは言うなれば死期なわけですが、悟ってしまった死期そのものを「存在」として、概念ではなくリアルな地理世界の中で徐々に近づいてくるという、その表現というかアイデアが抜きんでていて「うわああ」となりました。
自分が彼だったら、どうするだろう。
彼みたいに受け入れて静かに生きていくことはできるだろうか。

ベリーショートな掌編ですが、膨らませようによっては長いお話にできそうな、そんなログラインを持ったお話だったと思います。例えば村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」みたいな、私だけの静かな終末について、の佳作と思います。面白かったです。

さてさて。
ネプリの表紙にもあったように、フレグランスが通奏低音として、その上で詩歌と小説がゆったりとダンスをするような作品群でした。それも真夜中、誰もが寝静まった時刻に開かれる静かな静かな舞踏会でした。
あらためて素敵なネプリをありがとうございました。

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