わたしたちはもっと自由に幸せになっていい
コーポレートコピーか。
タイトルからもお察しの通り、マスターベーション的な文章になる自信がある。
今回はわたしの死んだ母親のことについて書く。
母が死んだのはもうかれこれ7,8年前になる。わたしは母への未練というか寂しさをずっと昇華出来ないでいるし、しなくてもいいとも思っている。
昇華してしまうことほど寂しいことはないと思っているから、時折突き上げるような悲しさが襲うときには本当に悲しいのか自分に酔っているのかわからない。
そんな母のことをわたしは美味しいものを食べると思い出す。
母はマクドナルドのテイクアウトで、とても喜ぶ。
ホテルの朝食のバイキングではとてもはしゃぐ。
生協で市販でお菓子を見ては買おうか迷って楽しそうにしている。
よほどの貧乏なのかと思われるかもしれないが、うちは全く貧乏ではない。
ちょっとした地主で土地がいくつか点々とありオーナー業をしつつ、わたしの父は大手企業の役員だった。
そしてうちはまったくの節約家で、ただ姉とわたしを私立の学校へ行かせるなど教育に関してはかなりお金をかけてくれた。
そんな母がなぜマクドナルドで喜ぶのか?
うちの家族構成は母が生きていた当時
おじいちゃん
おばあちゃん
父
母
姉
わたし
の6人家族だった。
わたしが生まれてから母が死ぬまでこの構成だ。
母は我慢の辛抱強さの人だった
祖父はとても厳格な人で、わたしたち孫には甘すぎるくらい甘かったものの、母には異常なほど厳しかった。
うちは当時農家で、息子の嫁、つまり母は外で働くことを許されず、農家の手伝いという名の専業主婦だった。
朝は誰より早く起きて、夜は誰よりも遅く寝る。
そんな古風な生活だった。
一度母が「臨時採用で外で働きたい」と言ったことがあった。
祖父はそれを大声で罵倒し縁を切る勢いで「覚悟はできてるのか?」と脅した。
わたしが中学生くらいの時で、夕飯どきに場が凍りついたのをよく覚えている。
当時のわたしは何も母を庇うようなことを言えなかった。
「別にいいじゃん、何でダメなの?」
の一言が言えなくて、不甲斐なさでいっぱいだった。
姉の受験の日に母が外出すると強く母を責めた。
私たち孫にも
「お前もそう思うよな?」
と同意を求めた。
そういった色んなねじれの中で、母はとにかく根気強く我慢して生きたのだと思う。
わたしが大学生になってアルバイトを始めて、母に喜んでもらおうと遊びに誘っても、家を空けられないから、と断るようになった。
そんなわけで母は
マクドナルドのテイクアウトで、とても喜ぶ。
ホテルの朝食のバイキングではとてもはしゃぐ。
生協で市販でお菓子を見ては買おうか迷って楽しそうにしている。
↓母のスカート、リメイク
そんな矢先、母は突然死んだ。
突然だったから脳梗塞とか心筋梗塞とかそんな感じだろうと思う。
わたしは母に問いたい。
おかあさんは幸せでしたか?
死んでしまってむしろホッとしましたか?
わたしたちはもっと自由に幸せになっていい
普通に生きていて、幸せじゃないことなんかいっぱいあるんだから、あえてさらに不幸を選ぶ必要なんてない
選択は自由で、行動も自由だ
母の分まで強く生きようと何度も何度も思います
美味しいフルーツサンドたくさん食べてやる!
写真は母と行った最後の旅行の時のもの🐱
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