見出し画像

自分のことが一番わからないのは、本当は一番知りたくないからなのかも

自分が一番あてにならない

「自分のことが一番わからない」
そう、済ませてきた瞬間(とき)があった。

「自分のことが一番よくわからない」と思っておくのは、目の前の選択を誤ったときの保険(言い訳)になった。

    

大事なことほど、奥の方にしまい込んでしまうのは、人間の性かもしれない。

    

    

「何をやりたいかより、誰とやりたいか」

前回の会社の反面教師の教訓だった。

それなのに、いざ目の前の選択に迫られると、途端に考え込んで、こんな大事な前回の教訓すらも思い出せていなかった。

自分の頭は、なんて、アテにならないのだろう。

   

きっと、色んな"防衛本能"という名の"バイアス"が、私の意思を決めるまでの過程でジャマをしていた。

その"バイアス"が、"納得できる意思決定"の障害となっていた。

   
自分への信頼の欠如

私は、二度と前回の"痛み"を繰り返したくなくて、信じることを簡単にしないようにすることを念頭に置いていた。

前回の失敗も、自分の最善を尽くした結果だった。

だけど、それではツメが甘かったのだと思い、前回よりも自己分析の必要を感じた。

失敗して、自分が信頼できなくなっていたから、自分を信頼したかった。

   

自分を信頼するために

自分を信じるためにも
「今までよりも、もっともっと自分の中の目指すところを決めなきゃいけない。」と、強迫観念のように思い込んでいた。

前回失敗して"痛み"を感じたのは、それまでの自分の自己分析ないしは、目指す未来の思想の深さも、全てにおいて自分のツメが甘いからだと思った。


とかく自分を責めて、"自分のなりたい姿"を考え続けていた。

だから、自分を知ることに貪欲になり、常に"何かはわからないが、決定的に足りないもの"を、渇望した。

    

「納得がいく」って何だ

どれほど自分を知り得ても、前回ほど納得のいくものを得られなかった。

納得のいく状態というのは、今の私にとってきっと「足りない」と思っている部分が何かわかり、それを追いかけていける状態のことだった。

   

足りていないことは明確なのに、"何が足りたいのか"がわからなくて、そんな自分に嫌気が差した。

そして、肝心な答えは誰も教えてくれない社会を、ときたま恨んだりもした。

   

納得のいくものを得られなかったとき、
「自分のことが一番わからない」という言葉に少し甘んじていたように思う。

   

その言葉があると、原因から見ぬふりをできた。

   
「わからない」も防衛本能

しかしあるとき、「わからないのも防衛本能だ」と気づいた。
つまりは、「わからないままにしておきたい」ということだ。

わからない方がラクに生きられる期間もある。


最近の私は、「わからない」と思っていたものは、「本当は、知りたくなかったんだ」となんとなく思えてきた。

    

私は「わからない」と逃げていながらも、「知りたい」という気持ちとせめぎ合っていた。

「自分がよくわからない」と思うことで、今の自分を批判せずに済んだ。
変わらない理由をつけられた。

だが、「いま、自分が変わることは必要だ」と、どこかで強く分かっていたのだろう。

だから、自分を変えるためにも、「わからない」ままだったものを、「知りたくなかった」と認知し始めたのかもしれない。

    

とかく、自分の「真実」と向き合うのは、とても体力が要る。

泣きたくもなるし、自己嫌悪にもなる。自責をして、胸が苦しくもなる。


この一連の話を、自分同じ講座を受けていた人に、自分の真実と向き合ってきた人に、話して聴いてもらっていた。

終始涙が止まらなくて、もっともメッセージだけのやり取りではあったが、"痛み"感じて自分をいつも通り客観視できないときに、そのこと全部を人と共有できることの喜びを感じた。

    

痛みに恐れを付きものだが、通じ合えた人がいれば、痛みへの耐性ができていく気がする。

よねごさん、聴いてくれてありがとう。

読んでくれてありがとう、ではまた!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?