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私たちは真実と隣り合わせなのに、見ようとしなければ片鱗も見えない

「あのときの自分には、必要だったよね。」

ときどき過去の痛みを思い出して、今を憂鬱に感じたときだった。
過去も含めた今の自分を慰めるように、自分に声を掛けた。



あのときの自分も、精一杯に生きていた。
あの考えが、選択が、行動が、あのときの自分にとっては最善で、精一杯だった。

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後悔とは、"あるがままの自分"を認められていない状態であるがために生じるものだ。

「このとき、こうしておけばよかった。」

「あのとき、あんな事を言わなければ...」

「もっとできることがあったんじゃないか。」

私たちは、たびたび自分自身の言動を振り返り、そして後悔する。

しかし、それら後悔はすべて虚偽であった。
どの後悔も"虚偽"なのではないかと、今の私は思う。
そして、その"虚偽"は、私達が好んで作り出している。

"虚偽を見ること"を真実としておきたいのだ。

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後悔を感じた中で、今の私が真実としておきたいのは、「どんなときの自分も、最善を尽くしていた。」だった。

最善を尽くした結果、うまくいかなかった事実が、"ただあるだけ"だった。
私たちは、この"ただあるだけ"の事物を「後悔」と名付けている。


言葉の不思議なところだった。

後悔と名付けると、本当に後悔を感じる。
そして、過去の自分の言動を認められなくなる。

そんな過去の自分が脳裏の片隅にチラついて、ときに今の自分を卑下するかも知れない。
ときにそれは、違和感を抱くことにもつながる。

なぜなら、過去の自分も含めて、”今の自分"であり"あるがままの自分"であるからだ。


だから、私たちは自分に何かを足そうとする。

"あるがままの自分"を認められていないがために、誰かに「こういうところが足りない。」と指摘されているかのごとく、後悔を払拭しようと藻掻く。

しかし、足りないところを足させようとしているのは、すべて自分だ。

過去の自分に、足りないところなんてない。
過去の自分が、過去の体験によって「足りない。」と確かに感じた。

だが実際に足りなかったわけではない。
真実は、「足りない。」と"ただ感じただけ"だ。

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「足りない。」と思うことは、過去の自分を認められていないことだ。
つまり"あるがままの自分"を認められていないということだ。

過去の自分を認められていないのに、今の自分を認めることが不可能であることもまた、真実だ。

繰り返しているが、
これも真実が"ただあるだけ"なのだ。

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「真実は、"ただあるだけ"なのに、見ようとしなければ片鱗も見えない」という真実の性質も、意識したい。

見ようとするには、真実を知りたい気持ちにつながる動機が必要であり、「真実を知りたい。」と思い続けることが必要だからだ。

そして、真実に気づく人が増えることが、間違いなく進化の一歩だと思う。

もう、一人一人が"あるがままの自分"を受け入れられないがために、人が人を傷つけ合うことはやめにしないと、と思う。

読んでくれて、ありがとうございます。ではまた!

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