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大学のこれから

これからの大学はどうなりますか?

『これからの大学はどうなるんですか?』
 そんな質問をされた。確かに小生は大学の教員ではある。しかし学校経営者でもないし、教育学の専門家でもない。虎ノ門あたりの官庁の高等教育局に友人が多いわけでもない。でもまあ、思うところは多い。なんにでも思うところがあるのは研究者畑の大学教員の性ではあろう。
 質問者と話していると「このごろ学部とか学科って無くなってきてるじゃないですかぁ」ということが発想の原点であるらしい(「ないですかぁ」って言われると反射的に「そんなことねえよ」といいたくなるのは置いておこう)。
 たとえば筑波大学や桜美林大学の『学群』『学類』、立命館大学や金沢大学の『学域』といった呼称は、従来までの学部学科を廃して、より広い枠組・領域の学びの中から個別の専門性を探ってゆくという教育研究方針が読み取れる。教員組織と教育制度を分離する大学も多くなり、筑波大では確か教員は『系』と呼ばれる組織に所属し、学生は学域や学群に所属しながら、さまざまな学類を自身の選択で選びながら学ぶという方式がとられていたと思う。従来の学部、学科という固定されたディシプリンでは学べない、さまざまな課題にこたえるために、それまでの枠を超えた教育の展開が必要ということなのであろう。大学での学びは越境するのが現在の潮流ということのようだ。高校もでも同様で、普通科ではなく総合科を選ぼうとする生徒も多いと聞く。「自分でカリキュラム、時間割を組める」のが魅力らしい。

専門書にあふれる「越境する」ブーム

 そういわれればこの頃、学術専門書のタイトルに「越境する」がつくものが多いのが気になっていた。試みに丸善ジュンク堂のサイトで検索をしてみるとこんな感じだ。

  • 越境する出雲学

  • 越境する認知科学

  • 越境する教育論

  • 越境するユング心理学

  • 多様なアプローチを越境する臨床心理学

  • 越境学習入門

  • 越境するファッション・スタディーズ

  • 越境する歴史学と世界文学

  • ガバナンスを問い直す〜越境する理論のゆくえ

 認知科学など、もとより数理科学・心理学・言語学・哲学・動物行動学・生理学などの複数ディシプリンを「越境」している科学だが、それがさらに越境するというのだからもう時代は大変なことになっている。
 学生時代(はるか昔)、行動科学だかシステム論だかの授業で「クロス・ディシプリンはもはやあたりまえ。今後はインター・ディシプリナリティが課題」と教わったことを思い出す。それが当時は最先端の革命的学術領域として芽を出していたものだったのだが、いまではもはやそんなことは当たり前。そうしてできた複合領域が、さらにさらに越境してゆくことになったらしい。
 しかもこれは単なる越境、学術領域の枠を跨ぐというような単純なことではない。むしろ「学術」とか「研究」とかからの「越境」という意味もあると思われる。それまでは「学術」的であること、は、まさに象牙の塔の中の確立した世界の秩序に沿うことであったものが、その結界を破って日常世界にはみ出してきた、という意味での越境を含むものであろうと思う。
 たとえばかつて「実験心理学」といえば、厳密に科学的にコントロールされた状況を『実験室的』に作り上げ、正確な手続きでデータを測定して分析する世界だった。実験室に特定の行動環境と関連要素を厳格に作り出し、その状況を厳密に測定することが基本だった。そんな状況の中で行われる研究は「学術的」には洗練され正しい物であっても、あまりにも制限や条件が多すぎて、一般の人からは「で、それは何の役に立つの?」というような代物であったりしたわけだ。
 しかし昨今の心理学では、たとえば「ファンが推しに向かってサイリウムを振る行為の意味を実験的に検証」したり、たとえば「コロナ禍での感染防止行為が他の感染症防止の認識にどう影響を与えたかを検討」したり、誰がみてもよくわかる目的や効果をもつ研究の方が多くなってきた。学術そのものが日常の生活や興味の方に越境しているといってもいい。多くの人が日々抱く疑問や、昨日今日気になっていることを研究対象とし始めたと言ってもいい。
 これはいうほど簡単ではない。特に「いまここ」で起こっていることを研究対象として分析することは、おそらく最も困難だったはずだ。そこにはなぜなら、それまでの研究成果、先行研究といったものがまるでない。研究者は初めてその領域に足を踏み入れなければいけないこともある。研究者自身が持っている武器をどう使って対象に迫るか、さまざまなアイディアも必要だ。時には武器を作りながら挑む必要もでてくる。従来の自身の学術領域を超えた角度での分析も必要になるだろうから、ディシプリンの越境も当然引き起こされることになる。あるいは他の領域の武器を活用したり、他の領域の研究者と協働することにもなるだろう。

学生たちの自主的な学び

 昨今ニュースでよく取り上げられるのが、学生が自主的に立ち上げる教育である。主体的学びをという掛け声だけならばどこの大学にもあるが、ゼミや科目のような形での継続的な学びの場を学生たち自らが立ち上げていく事例もいくつか出てきたし、そうした学生からの活動を課程に取り込んでいるという大学もある。その中身は地域とのコラボレーションであったり、福祉であったり、政治参加であったり、ジェンダーや性教育であったり、サブカルチャーであったり、ビジネスのスタートアップであったり。どれもこれも若い世代が関心を強く持つ現実的課題であることが多い。教員や大学から与えられるものではない発想で学生たちが動き始めているというケースが多発しているのだろうと思う。
 こうした自主的なテーマでの学びはつまり、既存の大学教育の中では扱われなかった、学びにくかったものに学生たちが目を向け始め、動き始めたことを意味する。学生たちが知りたいのは、昔からある学問の伝統ではなく、「いまここ」にある課題に立ち向かう方法なのだろう。それに立ち向かえる学問の力をこそ学生は身につけたいのではないか。あるいはそんな課題に「たち向かえる人」になりたいのではないだろうか。

工場ライン的教育の限界

 現状までの大学教育は、言うなれば強固に「目的的」だ。まず各学部学科が「求める人物像」(アドミッションポリシーと言う)を示して入試を行い、その学部学科が目指す人物像に向けて必要な資質を整理し、カリキュラムという形で提示し、これにのっとって教育を行っていく。それがうまくいくと想定通りの能力が身についた「人材」ができあがるというスタイルだ。
 これはどことなく工場のラインに似ている。トラック工場であればトラックにふさわしいシャーシを選んできて搬入し、そこにトラックに求められるエンジン、ミッション、荷台、運転席などを用意してはめ込んでいく。うまくいけば立派な輸送用トラックが生産される。また別の学科ではスポーツカーにふさわしいシャーシに、必要と考えられる部品をのせてゆく。そんな感じだ。
 この方法は世の中がどんな「自動車」(つまり人材)を必要としているかが明確な時は極めて効果が高い。トラックが必要な世の中にはたくさん運べる丈夫なトラックをどんどん生産するのがいいわけだ。つまり世の中に必要な人材が自明で、その人材を育成することが大学の目標であるならばそれでいいわけだ。
 しかしどうも現代は違う。そもそも学術に求められているものが、どんどん不明確になってくる。従来からの学術的枠組みで目標としているところとは大きくずれてきているといってもいだろう。より現実的な、人々が日々直面する「いまここ」の課題に応えてほしいと要請され、また応えようとしているのが昨今の学術なのである、その日々直面する「いまここ」は常に変化している。次々と様相を変える。大学の修業期間である4年後どころか、2年後、あるいは1年後の「いまここ」ですらその中身を予測することは難しい。これに対応するためには、おそらく工場のライン的教育では何もできなくなる。むしろトラック的なスポーツカーや、家族向けトレーラーなど、従来にない車種が求められることになっているともいえる。となるとむしろ車を作ること、ではない教育が必要かもしれない。

オタク的学び

 僕の知人に「少佐」と呼ばれていた人がいる、少佐は今、店舗企画やデザインをするオフィスでプランナーとして活躍している。
 もともと少佐は、獣医師を目指す学生だった。勉強しながら獣医院でのアルバイトもしていたが、病気や怪我で亡くなっていく動物たちをみているうちに少しうつ状態になってしまった。その少佐の気持ちを救ったのがふとSNSで見かけたあるアイドルだった。最初は在宅でSNSや動画などで応援していたのだが、ある日、意を決してライブの現場へ。右も左も分からない少佐だったが、偶然現場にペットショップのスタッフがいて意気投合。その人がTOだったのでアイドル・ライブでのお作法や行動の仕方、そして応援方法、つまり推し方を一から教わった。
 そんな少佐が、ある日、推しであるメンバーの生誕祭をまかされる。アイドルの現場ではファンやオタクが主催してイベントを行うことも少なくない。もちろん初めての経験だった少佐だが、別の現場で知り合った飲食関係者にライブもできるカフェを紹介され、そこで生誕祭を行った。その店はフードコーディネーターやデザイナーが運営する実験的なカフェで、そのスタッフと一緒になっていままでにないアイドルライブを開催することができた。これがとても好評で、その後、少佐は別のアイドルグループでもイベント企画を依頼されるなど、その店との共同作業を重ねていった。
 そのカフェではときおり実験的にお店のスタイルを変更するなどしていたが、そんなときに一緒になる建築関係の人やレストラン経営者などのなかに、少佐と同じくアイドルファンが少なからずいた。少佐の人脈はそうして少しずつひろがってゆき、当初はアルバイト程度と考えて現在の職に着いたようだが、その面白さにどんどん惹かれた。動物カフェやアイドルと共創する空間など、なるほど少佐らしい店舗の企画も数多い。「可愛いものと触れながらみんなが幸せをみつける空間」というのは、おそらく少佐が昔から抱いていた夢なのだろうと思う。少佐はなりたい自分になったようにみえる。

これからは「教員は全てオタク」で。

 少佐が現在の位置に来るまでに、実にさまざまなことを学んでいる。それはまったく系統的ではない。しかし少佐は「なりたい自分」になっている。さまざまな人とつながりながら、その都度その都度、必要な技術や知識を学んでいく。学びながら自分の居場所を、自分がやりたいなと思うこととそれに必要な自分になるための何かをつかんでいく、そんな学びだったのではないだろうか。
 少佐の周りにいたのは、乱暴な言い方をすればさまざまなオタクたちだ。アイドルオタクはもちろんだが、ペットオタク、イベント運営オタク、店舗デザインオタク、インテリアオタク、などなど。いずれも趣味的・好事的になにかをしている人たち。その人々の繋がりのかで、これをあの人とやってみよう、この人とこんなことをしてみよう、とするなかで少佐は成長した。
 僕は大学もこれでいいと思う。研究者も、率直に言えば何かのオタクだ。雑誌オタク、経済理論オタク、考古学オタク、中国文化オタク、マイナー言語オタク・・・。研究会などオタクの集まりとやっていることはほとんど変わりないし、学会誌という名の同人誌もある。そんなたくさんのバラバラなオタクが時々集まって共同研究したり、作品作ったり、イベントをしたりしている。このつながりの輪の中に学生たちは参加すればいい。それがこれからの大学の姿ではないかと思っている。
 学部学科の区別が消失しはじめたことは先に述べたが、学期ですらかつては1年かかって1科目を積み上げたものが、半期・クオーターとなってきた。これは集中して何かをすることを繰り返した方が毎週の時間割を何年も積み重ねるよりいいのだということだと思う。入学や卒業も、いつだっていいということになりそうだ。
 こういう学び方をもしかするとコネクテッドラーニングというのかなと今思っている。このリンク先の文献にある学習者の事例も、少佐のものに似ているなと思う。
 となると大学はまず、各教員のオタク度を高めることが重要だ。オタ活の支援である。ここに実務経験だの競争的傾斜配分だのを持ち込まない方がいい。もし持ち込むなら、その活動を楽しんでいる人がどれくらいいるか、という「オタク幸福度」の傾斜配分ぐらいだろう。次に必要なことはそのオタク的活動の中に大学院生や学生を組み込む仕組みだ。基本的には好きでやっている活動なのだが、それを大学の教育としてオーソライズすることが必要だ。すなわち教員と学生のオタク的活動を、スポンサードしオーソライズする。この2本を大学運営の中核にすることだろう。
 実はこれはいままでの教育とはそんなに大きな変化ではないと思っている。外型的には異なって見えるのかもしれないが、内実はすでにかなりそうなっているような気がする。各大学のアウトプットを見ていると「ああ随分と楽しそうなことをしているなあ」と感じることは多い。これを逆に大学の芯に据えてしまうだけのことだと思うのだ。
 というわけで「これからの大学はどうなるか」を勝手に考えてみたのだが、なんとなく、本当にそうなりそうな気がしている。個人的な希望だけではなく。

とてもぐうたらな社会学者。芸術系大学にいるがこれでも博士(社会学)。