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東日本大震災から10年経った今、震災遺児だった私が思うこと。


2021年。東日本大震災から10年が経つ。

あの時15歳、中学3年生だった私は、25歳になり社会人になった。

10年という節目で、被災者・震災遺児として当時の忘備録と
10年経ったからこその今の自分の気持ちの整理として書いてみる。

少々長いですが、お付き合いください。

すべてが変わった日

3月11日

その日は高校入試も終わり、卒業直前ということで先生たちが思い出ビデオを見せてくれて、その日は特別に掃除もなし。

「早く帰れてラッキー!」と思い、下駄箱前で友達が来るのを待っていた時に、立っていても感じるほどの大きな揺れを感じた。

学校の中を見てみると、廊下についている非常口の誘導看板も天井から外れ、コードだけでぶら下がっている状態。それだけで“普通の”地震ではないことを悟った。

そのあとすぐに先生たちが深刻な顔ですぐに校庭に避難するように誘導し、友達と私は校庭に避難した。

校庭で待機している時も何度か揺れを感じ、噂で津波が来ているということもちらほら聞こえる。学校は丘の上にあったため、津波の波もこず、木が生い茂っていて見晴らしもよくないので、その時はまちの様子は見えなかった。

我が家は海辺から約30mほどの距離。中学校からもそう遠くない。防波堤もあるし、津波が自分の故郷や家族を襲っていることが“自分ごと”のようには思えなかった。

それに1960年にあったチリ地震津波の経験がある祖父母や、それを聞いて育った父からは、小さい頃から口酸っぱく「津波が来たら、山の上にある親戚の家に逃げるんだぞ」と言われていた。
そういったこともあり、当時は、家にいるであろう祖父母と母、そして1歳7カ月だった一番下の妹は親戚の家に避難して無事だろうと思っていた。

星空の下の現実

日も暮れ、学校の体育館に移動すると、避難してきたまちの人たちがたくさんいた。電気も水道も使えない状況の中、みんなで譲り合い、支えて夜を過ごしていた。

寒くて寝れずに過ごしていると、先生たちからまた避難するように言われた。

震災が起こったのは3月。東北の3月はまだまだ寒く、石油ストーブを使う家も多い。
そのストーブが津波で倒れて、着火し、三次災害とも言える火事で町の一部が燃えているという。

火の手は山をつたい、私たちが通っていた中学校の近くまで来ていたため、山火事の影響がない場所にある、近くの高校に避難することになった。

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寒空の下、外に出て高校へ向かう途中で、私たちは現実を目の当たりにする。

中学校がある丘から坂道を下ると、そこにはあるはずのない、近所の家の2階部分だけがあった。ここは海岸線から約500mの場所。

寝不足、寒さ、空腹のせいで回っていない頭でも、十分に理解できるほどの情報量だった。

「これはただの地震と津波じゃない。」

とその時にやっと実感した。

見上げた星空は、憎いくらいに綺麗だった。

現実を知る誕生日

近くの高校に着き、一晩過ごした。出された乾パンやおにぎりを食べ、友達と話し、それなりに過ごしていたけれど、
時間が経つごとに自分たちはいわゆる“被災者”なのだと実感が湧いてきた。

朝になると、どんどん周りの友達は保護者が来て、家族と一緒に避難するか、被災していない人たちは家に帰っていった。

それなのに、私と妹だけが残っているという状況。まさかとは思ったが、まだ信じられなかった。

私たち姉妹が残っているというのをどこかから聞いたのか、親戚の人が引き取ってくれた。親戚の家にも祖父母と母、妹は来ていないという。

母が迎えに来てくれなかったということ、親戚の家に行っていないという事実に、私たちは不安でしかなかった。

「大丈夫かな…」とずっと泣きそうな妹に「大丈夫だよ!」と言い、手を繋ぐことしかできなかった。

信じたくはなかったが、そういうことだと頭では理解していたように思う。

……

親戚の家でご飯を食べていると、近くのまちで働いている父が来た。
その時の安堵感は今になっても忘れられない。
父が来た瞬間、私と妹は父の元へ駆け寄り強く抱きついた。

父は伯父が経営している個人病院で働いている。
津波が来ると分かった時は、患者さんを背負って山の上に逃げたらしい。
避難先で一晩過ごした後、知り合いの人の車に乗せてもらい地元まで帰ってきた。

避難所に向かった父は、近所の人にその時の家の状況を聞いたという。

脳梗塞の後遺症で足が不自由だった祖父は「逃げても迷惑をかけるだけだから残る」と言い張り、それを聞いた祖母も一緒に残ると言い、
それを聞いた母は、義父母を置いていけないと思ったのか、1歳の妹と一緒に残ったそうだ。

つまり、祖父母と母、1歳の妹は家と共に津波に流されてしまったということだった。

父からその話を聞いた時には、私と妹はただ泣くことしか出来なかった。

3月12日
その日は妹の13歳の誕生日だった。

絶望と日常の間で

瓦礫や泥をかき分けながら、家があった場所に“なにか”ないか探した。津波が大きかったせいか家があったところを探しても、ウチのものはほとんど何もなかった。

その後、避難所で生活するよりかは、山奥にあり津波の被害がない、母方の祖父母の家で過ごした方がいいということになり、父と妹と3人で向かうことになった。

通常、車で30分かかる道のりを歩こうとしたが、歩いている姿を見た優しい見知らぬ人たちに助けられ、途中まで車に乗せてもらいながら祖父母宅を目指した。

歩いている最中に、千葉に住んでいた伯母から電話がかかってきて、状況を説明したことでさらに状況を理解し、
祖父母宅へ着いた時に、本来ならば7人いなければいけないのに3人しかいないという状況で現実を受け入れた。

…というよりかは、絶望したという感覚に近いのかもしれない。

電気や水道が普通に使える状況になっていた祖父母宅へ着いたという安堵感と絶望で心の中がぐちゃぐちゃになったのを今でも覚えている。

それから2カ月ぐらいは、祖父母宅へ滞在しながら、町内中の遺体安置所になっているところをひたすら回った。それでも4人の遺体は見つからなかった。

10年経っても見つかったのは、祖母の少しの骨だけ。そのほかの3人は遺体もおろか、骨すら見つかっていない状態だ。

その後の私は高校へ進学したものの、常に心は上の空の状態で「もしあの時もう少し早く帰れてたら…」とか「もしあの時私が家にいたら…」とか、ずっっっと考えていた。

流されてしまった家族みんな居ないということはとても辛いものだったけれど、
特に思春期に母という存在を急に亡くしたということで精神的に不安定になる。

その上、新しい環境にも慣れられず心のバランスが崩れてしまって、勝手に孤独になってオーストラリアに飛ぶことを選択したのだった。

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大切なものって結構脆くて、消えやすいのかもしれない。

亡くなっても母は母ということは変わらず、私のアイデンティティのひとつでもあるけど、それでもたまに薄れそうになる。

私が経験したのは主に津波による被害だったけれど、津波によってそれまでの思い出も全て流されてしまったように感じていた。
それでもこの10年間、意地でも忘れるもんかと心の中に鍵をかけて守っている感覚だ。10年というこの区切りで忘れかけそうな気がするけど、そんなことはしてはいけないと思う。

もちろんモノに思い出が宿りやすいけれど、それ以外にも大切な思い出はたくさんあることを忘れがちな気がする。

失ってどんなに時が経とうと、寂しさは埋まらないし、亡くなった家族との思い出は尊いものだし、毎年3月11日が近くなるとどうも気が滅入る。

と、ここまで書いていて、考えがまとまらないのだけれども、それが10年の現状で、10年経ったからって気持ちの中で変化するものはあまりない。

ただ一つだけ言えるのは、どの選択肢も間違いじゃないし、私は私なりの人生を歩んでいきたい。14時46分にお墓の前で改めて思った。

祖父が意地でも家に残ると言ったのも、母が祖父母を見捨てずに家に残ったのも、震災前、私が学校で友達との時間を優先したのも、震災後、全てを置いてオーストラリアへ飛んだのも数ある選択肢の中でたまたまそれを選んだだけであって。

それを自分なりに生きていけば、キツくても、後悔はしないし、誰も責められない。

現実を生きるのは難しいけれど、
いつまで生きられるのか誰にもわからないけれど、
自分が自分らしく生きられるように自分の人生を選択していきたい。

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