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「もの」に乗せる

数ヶ月前、仲の良い友人がとある古着屋を教えてくれた。

自宅から電車で1時間もかかる場所だが、私はその小さな古着屋が好きで、月に1回は足を運んでいる。オーナーが1枚1枚目利きして仕入れているのだろうか、揃えられた品物の数々が、とにかく絶妙にこちらの感性をくすぐってくる。集められるブランドはざっくばらんだ。だから一見統一感がないようにも見えるけれど、オーナーの美意識というフィルターがかけられていることで、どの品物もどことなく一様な雰囲気をまとっている。そんな空間の中で、その時の自分にしっくりと合う1枚を掘り出せた時の喜びはひとしお。本当に宝探しをしているような気分だ。

最近はこの古着屋だけでなく、個人経営のセレクトショップや、地方で作られた手工芸品などのお店をのぞくことが好きになった。そのきっかけは、アパレルショップが集約された商業施設に対して、いつの間にやら違和感を抱くようになったことだと思う。

少し前まではショッピングといえば、たいていは駅近くの大型商業施設などへ行くことが多かった。有名なブランドが軒並み揃っていて、買い物をするにはとても便利な場所だから。けれど1年くらい前からだろうか、そんな商業施設に入ると、比喩でも誇張でもなく、くらくらと目が回るようになってしまった。

店内に足を踏み入れると、おびただしい数の服が並べられている光景が目に飛び込んでくる。その時点で、視界に入ってくる情報量の多さにたじろぐ。それでもなんとか気分を持ち直し、一番近くの棚に掛けられている服から眺め始める。すると店員さんがやってきて、私が手にしている商品が今季のトレンドであることを説明してくれる。

少し離れたところからは、「セールやってまーす!」「こちら人気商品で、今日再入荷したばかりなんですよ~」なんて別の店員さんの声が聞こえてくる。

並べられた値札付きの商品、その陳列の仕方、接客の声。

目に、耳に、入ってくる1つ1つの情報のバックから、買い手であるこちらを扇動するような大きなエネルギーが動いているように感じてしまう。次第に息が詰まり、くらくらと目眩のようなものが始まる。

どうにか買い物を終えても、気に入るものを手に入れられた嬉しさではなく、1つミッションを乗り越えたという勇ましい感情しか残らない。そうして戦利品の入ったショッピング袋をぶら下げ、へとへとと家路につく。

いったい、私は何しに行ったのだろう。

はじめは微かな違和感でしかなかったこの感覚は、季節が巡るごとに強くなっていった。(アパレルショップは悪くない)

肥大するこの違和感に呼応するように、個人経営のセレクトショップや手づくりの品が置いてあるお店に惹かれていった。作り手や選び手の想いが滲み出ている場所は、いるだけでじんわりと心が緩む。

思えば私は、ものを通じて、作り手や選び手の想いに触れられる体験を求めているのだと思う。例えば、地元の伝統工芸に新しい風を吹かせたいと画策する若いデザイナーの熱意や、お客さんに届けたい洋服を1枚1枚丁寧にセレクトする感性なんかを。

日々使うものをとりあえず買うという風ではなく、誰かがその品物に乗せて伝えたかった信念に触れること。それは単なる消費ではなく、自分とは違うフィールドで魂を燃やしている誰かの情熱に、自分も!と勇気を分けてもらう感覚でもある。


“もの”に乗せられた誰かの想いに、もっともっと触れていきたい。

2022年は、そんな年にもしよう。

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