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信じて待つことはとても苦しい

3学期がしばらく経ち、毎日のサイクルは少しずつ定まってきています。安定してきているように思う反面、なんか苦しいんだよなあ、という気持ちが抜けなくて、なんでなんだろう、とずっと思っていました。

色々な要素があると思うのですが、その一つとして「待つ」ということが今とても必要だということが苦しさにつながっているのだと、ふと思い至りました。

今直面している、あらゆる「待つ」こと

子どもの主体的な行動を待つ、ということを決めた私。
例えば、「XXをしなさい」だけでなく「XXをしてみない?」ということも、極力やめたこと。
子どもが考えていることに対して、先回りして答えないこと。
子どもの気持ちを、「XXっていうことだよね」と言って先読みしないこと。
子どもたちの歩みは今はとてもゆっくりで、でも自分達で答えを出すことこそが、必要なとき。

結果として、本当に何にもしない日があって、テレビを見てダラダラしている日もあって、モヤモヤして喧嘩ばかりしている日もあります。

待つことを信じてはいるけれど、「何とかしなくては」と思う私もどこか捨てきれない、今自分が待っていることを信じきれていないのだなとすごく思います。

待つことが難しいのは期待があるからだ

待つことができなくて、口出しをしてしまったり、怒りに変わってしまった時を少し思い出してみます。そこに必ず、何かしらの「期待」があるのでは?と私は思います。

「XXしてほしいのに」
「XXしないといけないから」
「XXは流石にやめてほしいな」

口では、自分で考えよう、とか、学校は行かなくても、と言っても、やっぱりどこかで、こうであってほしい、という期待をもっている。
その期待が、信じて待つこと、のストッパーになっているのだなと思うのです。

とはいえ、正直、難しい。
やっぱりゴロゴロとしてる子どもたち(しかも二人!)をみていると色々思うところはありますし、学校に行けるなら・・みたいなことも、気持ちとしてはあるのです。

期待はそう簡単に捨て切れるものではない、だけど、期待を少しずつ手放したら、きっと私も、多分子供も、軽くなるんだろうな、と思います。

※ ちょうどそんなことを思っていたら、購読させていただいている不登校新聞にも同じようなテーマの記事が出ておりとても参考になりました。

おとなが頑張りすぎているということなのかもしれない

思えば、期待を多くもっているということは、自分がこれまでとても頑張ってきたことだとか、頑張れなかったことに対して思いがあるからこそ期待をもっているとか、背景もあるのだと思います。
「やればできる」という言葉が溢れていて、頑張っている人が評価されるという雰囲気が社会全体としてもあるのが、辛いですね。

私自身も、とても頑張ってきた(自分で言うのもなんですが)ところがあります。
おおよそのことは努力で解決してきたと思うので、努力で解決できないことに直面することが、とても苦しいのだと思います。

でも、努力だけで解決できないことが、やっぱりある。
時間をかけて、答えを「抽出」していかなければいけないこともある。
せかせか母で、子供たちもきっと苦しいでしょう(苦笑)

期待から、頑張ることから、解放されることが必要だ、とわかっただけでも、少し軽い気持ちになります。
もし待つことが苦しい時は、その裏にある期待を手放してみるのだ、と気付いた今日です。

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