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呼ばれる名前と私の輪郭

「自分で選んだ相手こそが家族である」

NASAの考えるこの家族の定義を知ったとき、私は深く納得するとともに、体の力が抜けるほどのため息をついた。心の奥底でそう確信していながら、言葉に出すことをどこか恐れていたからだ。

ここでいう家族には、直系家族と拡大家族の二種類がある。直系家族にあたるのはパートナーと子どもと、子どもの配偶者までで、親や兄弟は拡大家族に分類されるそうだ。

NASAでは、直系家族だけがシャトルの打ち上げが見られる特別室に招待され、宇宙飛行士に万が一の事があったときに連絡が入る。血縁ではなく、自分の意志で「家族になる!」と決めた人たちにこの権利が与えられるのだ。

こんな話をしているものの、私はけっして親や弟が嫌いなわけではない。今日までたくさん愛を注いでもらったと自信をもって言えるし、今でも変わらず仲良くしている。

それでも私は、夫の姓を名乗ることでようやく自分の心を真正面から見つめることができた。それも、まぎれもない事実だ。

私にとって旧姓は親の名前という感覚が強く、悩み多き十代と二十代をポンジュースのように濃縮したシンボルでもある。今となってはその姓で呼ばれるだけで赤面してしまうほどだ。

きっと、実家の家族に対してはしっかりした姉でなければと格好つけていたのだと思う。

けれど、私の情けない部分をそのまま受け入れてくれる夫と暮らすことで、ようやく「これが私らしさなんだ」と自分を許す気持ちがわいてきた。

「これでいいんだ」「大丈夫なんだ」「そういう自分も愛していい」

そんなことを思うたびに自分の輪郭を描くように、線がシュッと引かれる。デッサンのように何度もなんどもその線を引くことで、私の姿が浮かび上がってきたのだ。

これと似たようなことが、SNSやブログでハンドルネームを使い始めたときにも起こった。

会ったことのない人たちからその名で呼ばれ、誰にも話したことのない心情のひだが、アコーディオンのように伸び広がり、綺麗な音色が響くようだった。そんな姿勢で会話を重ねていくうちに、ますます私の輪郭は濃く太くなっていった。

この、名前によって自分をつかんでいく感覚はなんだろう。

考えてみるとやはり「自分で選んだ」ことがカギなのではないかと思い当たる。夫の姓に変わると決める。ハンドルネームを自分で決める。どちらも私が自分で開いた、その名前で生きる世界の扉だ。

そして、人が新しい名前で呼ばれると何が起こるのか。私はそれを身をもって感じたことがある。

生まれたばかりの息子を、初めてずっと考えていた名前で呼んだときのことだ。私の口から出たその音が鈴のように転がり、目の前の空気にふうっと溶けていったのだ。

名前の音がこの世界の空気をふるわせることで、人は生まれる。ふと見上げた空に流れ星を見たような、明るくたしかなひらめきだった。

愛をこめて名前を考え、選び、決める。

それはつまり、自分の輪郭を浮き上がらせることでもあるのだ。

ついこのあいだ、息子が本名を上手に言いかえた名前でゲームをしていたのを見つけてしまった。

「おおっ、うまい名前つけたじゃん!やるね!」

輪郭を描く筆を手に入れたことを喜ばしく思うものの、あせる気持ちもあった。デジタルネイティブ世代は自分の輪郭を描くスピードが、私たちよりずっとはやいのだ。

そんな息子もいずれは大切な人と出会い、家族となる約束を交わすかもしれない。想像するだけでさびしいけれど、その時はいちばんやさしく素直な言葉を贈ろうと決めている。

「あなたはそのままで素晴らしい、いつまでもそう思っているよ」

息子の拡大家族となった私は、特別室ではなく別の場所から彼の出発を見守る。そしてそのあと軽くなった肩を動かし、また自分の輪郭を描きながら生きていくのだ。

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